16
寝込んで四日目。
芝居は順調だった。朝になるとメリーが食事を部屋まで運んでくる。私はスープを二口ほどすくう真似だ
けして下げさせた。下げた食事はメリーが跡形もなく処理した。厨房では「お嬢様はスープだけはお召し
上がりになる」という話が、使用人たちのあいだでは「お嬢様は近ごろまるで気力がない」という話が回
っていた。
本当の食事は夜に取った。ヘンリーがおごってくれる食事は、男爵邸のそれとはまるで種類の違う美食だ
った。寝込んでいる人間の体重が増えるという奇妙な現象が起きていたが、ドレスの下のことまで確かめ
る者はいなかった。
サラの手紙は二日に一度の割合で届いた。
『イビ‼ 具合はどう⁉ 返事が遅いと大変なことになったのかと思うからね!
昨日のお茶会でクララが心配してくれたよ。前に具合悪かったときみたいに顔が半分になっちゃったのか
って!
(あたしは半分まではいってないって言っといた。三分の二くらいって。)
とにかくみんな心配してる! お茶会までには絶対よくなってよ!
愛を込めて、ベ・フのサラ・アシュフォードより ❀』
三分の二って。私はふっと笑って手紙を畳んだ。
見事だ。私が最後にサラに会ったのは四日前なのに、噂の中の私はもう顔が半分になっていた。噂という
のは転がるうちに肉のつく雪玉のようなもので、転がしはじめさえすれば勝手に体を大きくしていく。
そしてその雪玉は、私が思っていたより早く目的地に着いた。
「お嬢様」
五日目の朝、メリーがこわばった顔で部屋に入ってきた。
「男爵様が、今日お戻りになるそうです」
私はベッドに寄りかかったまま、窓の外を見た。
ずいぶん早いお戻りで。
商用で出てまだ一月も経っていない。この前は一月以上も鼻先ひとつ見せなかった人間が、娘が寝込んだ
という噂の一行で予定を切り上げて駆けつけてくる。
心配で?
いや。
確かめたいのだろう。うまく運んでいるかどうかを。
「メリー」
「はい」
「カーテンを半分だけ引いて。それから水の器をベッドの脇に。ハンカチも」
「……はい」
メリーは言われたとおりにしながらも、唇を噛んでいた。
「お嬢様、私、お芝居なんてできないのにどうしましょう」
「あんたは芝居しなくていい。いつもどおりにして。心配そうな顔で私の様子をうかがうの、今もちゃん
とできてるよ」
「……それ、褒め言葉ですか?」
「うん」
メリーはため息をつくと、最後に掛け布の襟元を整えてくれた。指先が少し震えていた。
「すぐ終わるから」
「……はい」
午後になって男爵が到着した。
階段を上がる足音から聞こえてきた。重く、速い。あの人間が娘の部屋まで直々に上がってくるのは初め
てだった。
ノックもなく扉が開いた。
「イビー!」
私は枕に寄りかかったまま、ゆっくりと顔を向けた。できるかぎりゆっくりと。首ひとつ回すのにも力の
要る人間のように。
「……お父様」
声は半オクターブ低く、語尾はわずかにかすれさせて。
「ああ、わたしの娘。これはどうしたことだ」
男爵はずかずかと近づき、ベッドの脇に腰を下ろした。その重みでベッドが揺れた。
わたしの娘。
私は胸の内でその言葉を一度転がしてみた。一月前にはフォークを投げつけていた口から出た言葉にして
は、発音がなめらかすぎた。
「噂を聞いてどれほど驚いたか。何だその顔は、半分になってしまって」
三分の二ですが。
「飯は食っているのか?」
「……食欲がなくて」
「おやおや」
男爵は舌打ちした。眉間に皺を寄せ、眉尻をハの字に垂らして。心配する顔の構成要素はすべて揃ってい
た。
目を除いては。
目が笑っていた。ごくかすかに、しかし確かに。口ではおやおやと言いながら、目尻が満足げにゆるんで
いた。芝居というのは実に難しい。顔の筋肉を数十も残らず制御しなければならないのだから。私も今そ
れをやっているから、よくわかる。
この人間は私より下手だった。それがこの対面の唯一の慰めだった。
「茶は? 茶は飲んでいるか?」
来た。
「……はい。それだけは欠かさず」
「そうか、そうか。よくやっている。体が弱いときほど、茶を欠かしてはならないんだ」
男爵は大きくうなずくと、扉のほうへ手ぶりをした。使用人が一人、木箱を抱えて入ってきた。
「ちょうどよかった。わたしが今回、良い品を仕入れてきたのだ」
箱が開いた。白地にほのかな釉薬の照る茶器が一揃い収まっていた。ティーポットが一つに、カップが二
つ。ひと目でこの部屋の品々には過ぎた上物だった。
「……茶器、ですか?」
「これも東方から海を渡ってきた、たいそう貴重な品でな。こういうものは誰でも手に入るものではな
い」
私は茶器を見つめた。
おかしい。
この人間はけちだ。衣装棚にドレスを三着しか掛けておかない人間だ。娘の食事には金を使うが――食事
は自分の口にも入るからだ――ともかく贈り物などというものをするような人間ではない。それが見舞い
の品に茶器とは。
茶に執着し、茶の器にまで執着する。
「……ありがとうございます」
「これからは茶は必ずこれで飲みなさい。良い器で飲んでこそ、薬もよく効くというものだ」
薬もよく効く、ときたか。
あからさまに怪しい物言いだ。私は疑いが顔に出ないよう努めなければならなかった。
「ところでイビー」
男爵は座り直した。縁談を初めて切り出したあの食事の席でも見た姿勢だ。何か重要なことを言おうとす
る構えだった。
「わたしがよくよく考えてみたのだがな」
「……」
「お前がこうも患っているのだから――世話をしてくれる夫が要るだろう」
来た。
私は思わず真顔になりかけたのを、力なく目を伏せることで覆い隠した。
「……結婚のお話でしたら、前に申し上げたはずですが」
「あのときはあのときだ」
男爵は手を振った。
「あのときはお前も健やかだった。今は違うだろう。病んだ体でどうやって一人で生きていく。そばで世
話をしてくれる者がいなくては」
世話をしてくれる者なら今もいる。メリーが扉のそばで血の気の失せた顔で立っていた。
「プリチャードのほうとは、話がたいそうよく進んでいるんだ」
「……」
「先方もお前を気に入っていてな。とりわけ――」
男爵は少し間を置いた。良い報せを出し惜しみする人間の表情で。
「お前が物静かで病弱な子だと聞いて、かえって好都合だと言うのだ。騒々しい娘よりよほど良いと」
病弱な花嫁のほうがかえって良い。
その言葉が部屋に落ちた瞬間、私は背筋に鳥肌が立つのを感じた。芝居ではなく、本当に。
花嫁が弱いほど良いという家など、いったい何なのか。縁談の話をしたあの日、貴族の系譜でプリチャー
ドという名を見たときに引っかかった何かが、また喉に引っかかった。あの系譜は、どこかおかしかっ
た。
「縁談がまとまれば、お前の看病も先方が引き受けてくれる。わたしは商団の仕事で忙しいのでな」
「……お忙しいのですか?」
「そうだ、ちょうどその話だ」
男爵は膝を打った。
「三日後に船が入る。わたしは港へ行かなければならない。十日ほどかかるだろう」
「……」
「帰りにプリチャード家へ寄って、日取りを決めてこよう。だからお前は――」
彼は私の手の甲をとんとんと叩いた。分厚い手だった。
「養生でもしていなさい。茶を欠かさずにな」
「……はい」
「うむ、初めからそうやって素直に言うことを聞いていれば、どれほど良かったか」
男爵は満足げに笑って立ち上がった。部屋を出る前、彼は新しい茶器の収まった箱にもう一度目をやっ
た。
「あれは今日から使いなさい」
扉が閉まった。
階段を下りていく足音は、上がってきたときより軽かった。鼻歌でも歌いだしそうな勢いだった。
足音が完全に消えたあとも、私は三十秒数えた。そして枕から背を離した。
「メリー」
「は、はい!」
「聞いたね」
「……聞きました。全部」
私はベッドから下りて、茶器の箱の前に立った。白いティーポットがおとなしく私を見上げていた。
整理しよう。
一つ。娘が病んだという報せに、あの人間は喜んで駆けつけた。計画どおりに運んでいると信じていると
いうことだ。餌はしっかり食いついた。
二つ。病んだ娘の縁談を急ぐ。普通は逆だ。娘が病めば縁談は先延ばしにする。ところがこの人間は病む
ほど急ぎ、相手のほうは病弱なほど喜ぶ。
病んだ花嫁を欲しがる家と、病んだ娘を急いで押しつけようとする父。
――死ぬにしても、よその家で死ねということだ。
じわじわと患ったすえに嫁いで、嫁いだ先で静かに死ぬ娘。ブレア家には何の傷も残らない。葬式で涙を
数滴ばかり絞れば終わり。完璧に清潔な処理。
ヘンリーの言った「後腐れのない、きれいな解決」とは別の意味で、きれいな。
三つ。
私は白いティーポットを手に取った。すべらかで、ひやりとして、きれいだった。
けちな人間が贈り物をした。茶に執着していた人間が、今度は器に執着する。「良い器で飲んでこそ薬も
よく効く」と言った。
茶葉は清潔だった。ヘンリーが保証した。首都で最上の鑑定士三人が保証した。
では残るのは何だ。
水。水は使用人たちも同じ井戸を使う。カップ? ポット? 茶が出るあいだ茶葉が浸かっている場所。熱い
湯が長くとどまる場所。
……まだわからない。確証がない。この世界には成分を検査してくれる者もいない。
だが男爵の言葉が、しきりに引っかかった。
良い器で飲んでこそ、薬もよく効くというものだ。
「お嬢様、その茶器……お使いになるんですか?」
メリーが慎重に尋ねた。
「使っているように見せなきゃね」
私はポットを箱に戻した。
「茶は淹れるだけ淹れて、全部捨てて。飲んだように見せかけて。今までどおりに」
「はい」
「それと、この茶器、絶対に割らないで。傷ひとつつけないで」
「……どうしてです?」
「証拠になるかもしれないから」
メリーが生唾を飲む音が聞こえた。
四つ。最後。
三日後、船が入る。あの人間は港へ行く。十日、家を空ける。
私は窓辺へ歩き、カーテンを最後まで開けた。午後の光が部屋に降り注いだ。病人の部屋にしては明るす
ぎたが、見る者もいなかった。
ブレア商団。男爵が直々に取り仕切る船。問題の茶が流れ込んできた流通経路の終点。
あの人間が港で何を積み、何を降ろすのか、誰と会うのか、そして――一月ずつ家を空ける「商売」とい
うのが正確に何なのか。
これまで屋敷の中で証拠を探した。なかった。当然だ。狐は自分の巣穴に痕跡を残さない。
ならば、巣穴の外を辿ればいい。
「メリー」
「はい」
「三日後、私、容態が少し悪くなるから。部屋から一歩も出ないくらいに」
メリーはもう尋ねもしなかった。ただ、とても深いため息をついただけだった。緊張と心配の混じった、
それでいて誠実にやり遂げると誓うような、そんなため息を。
「……何かご入り用でしたら、おっしゃってください」
やはり、見事な侍女だ。
翌日の明け方、私はいつもより早く目が覚めた。
体を起こしながら考えた。計画は立った。三日後の動線も、今夜ヘンリーにそれとなく探っておくこと
も、頭の中にきちんと整理されていた。
整理のつかないものは、たった一つだった。
結婚。あの忌々しい結婚。
計画も何も、ただ誰かをつかまえて思いきり悪態をつきたかった。
幸い私には、明け方ごとに公園で猫を撫でている、立派な壁が一つあった。
私は男装の服を着込みながらつぶやいた。
「アン、悪いけど今日、あんたの耳をちょっと借りるよ。」




