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「この店の肉料理、なかなかいけますね」
私は肉をもう一切れ口に運びながら言った。
「……」
私ががつがつと食べる様子を、ヘンリーは頬杖をついてじっと見ていた。
旅人のあいだで評判だという宿屋の食堂だった。俸給の交渉以来、ヘンリーは巡回の前に必ず食事から取らせた。雇用条件の一つだけは、きっちり守る男だった。
「隊長も召し上がりますか?」
もう何度もくり返した誘いだった。最初のうちは「いや、いい。俺にかまわず、たくさん食べてくれ」と丁寧に断っていたのが、回を重ねるごとに「いい」「いや」と、断りの言葉がだんだん短くなっていった。ついに今日は——
「……」
笑った顔で、言葉もなく断った。
言葉を丸ごと省く境地に達した。夜食は好みじゃないんだろう。私も、断られるとわかっていながら、一人で食べるのが気まずくて、つい何度も勧めてしまう。
「よく食うな」
「しっかり食べておかないと、巡回も気合いが入りませんから」
「違いない。食事を出す前より、ずいぶん意欲的になった気がするよ。俺の目にもな」
「人は、もらった分だけ働くものですよ」
「ふむ。雇い主が肝に銘じるべき言葉だな。留意しておこう」
私が食事しているあいだ、ヘンリーは他愛もない話をふってきて、私は会話に応じながらも食べる手を止めなかった。
「昨日のエヴァンの活躍、大したものだったな」
「昨日?」
「酔ってふらついてた大男を、うまいこと押して宿へ送り返しただろう」
「ああ、あれですか」
「体は小さいのに、どこからそんな力が出るんだ?」
「力でやったんじゃありません」
「じゃあ?」
「相手の動きを観察して、予測して、重心をほどよく突いてやれば、狙ったところへ送り出せるんです」
「……ロビンに伝えておこう」
「なんでです? ロビン卿が気になってるって?」
ロビン。ヘンリーの副官で、最初に捕まった日からずっと、ヘンリーの一番近くに張りついていた騎士だった。
「お前が捕まってきた日から頭を抱えてるんだ。見習い騎士より速い正体不明のお嬢さんを、報告書のどの項目に書けばいいんだ、とな」
「……『協力的な市民』でお願いします」
「腕をへし折っておいて?」
「協力の前には、誤解というものがありますから」
ヘンリーが低く笑った。
皿を半分ほど空けたころ、隣のテーブルが騒がしくなった。
「だから、これじゃないって言ってんだろ!」
大柄な男がテーブルをドンと叩いた。酒のまわった顔が真っ赤だった。その前で、宿屋の若い給仕が盆を抱えたまま、途方に暮れていた。
「お、お客様、確かにご注文されたのは——」
「いつ頼んだ! こんなちびすけが、人を陥れやがって!」
給仕がぶるぶると震えた。頼んだものを頼んでいないと言い張って、勘定を踏み倒そうという魂胆だった。自分のほうが強いと思っているから。舐めてかかれる相手だから。
私はフォークを置いた。
「エヴァン」
隣でヘンリーが低く呼んだ。止めるのではなく、見極める声だった。その手はすでに椅子の肘掛けを支えにしていた。いつでも立ち上がる構え。私を信じつつ、危ない目には遭わせないという。
「すぐ終わります」
私は席を立って、隣のテーブルへ歩いていった。
「お客様。そのお皿、空ですね」
「なんだお前は、また」
「スープ。底までさらってあります。パンも三切れ全部召し上がった。そこの骨だけ残ってるのは、私と同じ肉料理ですね。頼んでもいないものを、そこまできれいに平らげるのは難しいかと」
男の顔が歪んだ。理屈で追い詰められると、すぐに別のカードを切ってきた。
「このガキ——お前、俺が誰だか知ってんのか?」
大きな体を起こして、私を見下ろした。
呂律のまわらない声と、突き出す指。酔っ払いの脅しが続いた。
「俺の後ろ盾が誰か、わかってんのか? あ?」
彼はとろんとした目で私をにらみつけ、この世で一番偉い名を呼ぶように、声を低く落とした。
「なんと、侯爵様だぞ」
「……」
「港ではな、あの方の名を一度出しゃ、みんな勝手にひれ伏すんだ! お前みたいな小物が、よくも——」
「ふむ」
私はうなずいた。
「いい手本になりそうですね」
「なに?」
「隊長、さっきロビン卿が気になってるって言ってましたよね? よく見て、生き生きと伝えてやってください」
男が何のことかわからず目をぱちくりさせているあいだに、私はその腕をつかんだ。
「さあさあ、迷惑客は出ていってくださいね」
「離せ! 俺は港の所属だぞ! お前ら治安隊の管轄じゃねえんだよ、この無知どもが!」
なるほど、港とはそういう場所だったのか。一つ学んだ。
「ここは、王都ですけど」
私はつかんだ腕の重心を、そっと傾けた。
「王都で暴れたんですから、王都の法ですよ」
男は自分の重みに耐えきれず前へよろけた。私はその力の向きだけを、扉のほうへ少し逸らしてやった。酔った巨体は、自分で歩いているつもりで大股に、実際には私が押すまま、戸口まで押し出されていった。
扉の外には、ちょうど巡回中の治安隊員が二人いた。
「この方、勘定を踏み倒して子を脅しました。侯爵様の話は、中に入ってゆっくりなさればいいので」
「ん、んん? おい、おい! お前ら、俺が誰だか——」
「はいはい、窃盗罪と脅迫罪。賠償は百倍になります。治安隊に献上いただければ、宿屋にお渡しするのはサービスでやっておきますね」
私が適当に並べ立てて男を引き渡すと、治安隊員たちは慣れた手つきで両腕を抱えた。男が何やら大声でわめくので、扉をバタンと閉めてやった。
私は手を払って席に戻った。
宿屋の主人が駆けてきてぺこぺこ頭を下げ、給仕は目に涙をためたまま、何度も頭を下げた。私は大丈夫だと手を振った。食事の邪魔になる者をどけただけだ。
席に着くと、ヘンリーは肘掛けから手を離していた。彼は私をまじまじと見ていた。
「……なんですか」
「いや」
ヘンリーがふっと笑った。
「手を貸す隙もないな」
「隊長が出るような話でもなかったでしょう」
「それはそうだ」
彼は頬杖をついて、さっきとは少し違う目で私を値踏みした。
「お前、本当に変わってるな」
私は片耳で聞き流し、またフォークを取った。
「けんかを売ってるんですか?」
「いや、そういうんじゃない。ただ、事実を言ってるだけだ」
その言い方が、なぜだかよけいに癪に障った。私は肉をつまんで口に入れた。
「まあ、私が特別なのは確かですけど」
私が素っ気なく返して食事を続けると、ヘンリーは黙って私をじっと見つめた。しばらく私が食べるのを放っておくのかと思いきや、ヘンリーがまた不意に言った。
「カトラリーの下に敷くナプキン。お前、いつも半分に折るだろう」
「……それが何か」
「その作法、どこで習った?」
私は内心どきりとした。
実際、私は食事のたびにナプキンを半分に折っておいた。店主に料理への感謝を伝える印だと、作法の本で読んだからだ。イビーの家の料理長がよほど料理上手で、少しでもねぎらいたくて始めたのが、いつのまにか習慣になっていた。
「十年前に流行った作法だな」
「……最近はやらないんですか?」
「若い連中はやらないな」
私はどう返せばいいか見つからず、口をつぐんだ。あの書斎の本は、どれも十年以上前のものだった。
「状況を読めるし、世渡りもうまい。世間慣れした人間のように振る舞っていたかと思えば——ときには、無邪気なほど何も知らない」
ヘンリーは私を解体するように見た。
「物価を知らない、貨幣を知らない、近ごろの作法を知らない。それでいて危機の対処は手慣れていて、魔法を使い、取調室では目を走らせて、まず逃げ道から探す」
「……」
「お前、いったいどこで暮らしてきた人間なんだ?」
図星だった。あまりに図星で、いっそ笑いが出そうになった。どこで暮らしてきたか。その問いに正直に答えようとすれば、夜を明かしても足りない。私自身、全部は覚えていないのだから。
「……さあ。私も、たまに気になります」
「冗談でかわすか」
「冗談じゃないんですけど」
ヘンリーはしばらく私を見ていたが、それ以上は掘り下げず、話題を変えた。
「この前の茶葉の調査の件だが」
器にほとんど顔を突っ込むようにして食べていた私は、顔を上げた。
「どうなってる?」
単刀直入な問いに、私は目を細めて無言の圧をかけた。彼が口を出すことじゃないのは、本人もよくわかっているはずなのに。
するとヘンリーが、言い訳するように付け足した。
「俺が力になれてない気がしてな」
「いえ、力になりました。茶葉には問題がないという確証をくださいましたから」
私は食べかけの皿を空にして、食器を置いた。そして習慣どおり、ナプキンを半分に折ってその上に載せた。
ヘンリーの視線がそのナプキンにしばらく留まってから、私に戻った。
「茶葉の調査に、食事の調達」
「……」
「推し量るのは難しくなかったよ」
やはり。言い当てられたこと自体は驚きではなかった。茶葉の成分を疑う人間が、俸給によりによって『食事』を要求した。この男が、その二つの欠片をつなげられないはずがない。
「お前、家から出てくるものを疑ってるな。だから外で食べる」
「……聞かなかったことにします」
「もちろん、こういう間接的な手助けなら、造作もないんだがな」
ヘンリーはそこで言葉を切ると、突然、胸に手を当てた。
「こんな有能な人材にもしものことがあれば、俺は胸が張り裂けそうでね」
大げさな身ぶりで、泣くふりまでした。
私も負けじと、顔をくしゃっと歪めて、えずくふりで返礼した。
「けっこうです、隊長」
「本気なんだがな」
「その本気、演技力が本気を全部削り取ってますよ」
「ふむ」
ヘンリーは咳払いをすると、今度は座り直した。おどけた色の抜けた顔だった。
「茶葉を調べようとする、根本的な理由を教えてくれるならな」
「……」
「俺が解決してやってもいい」
「遠慮します」
「お前が心配するようなことにはならん。後腐れなく、きれいな解決だ。保証しよう」
きれいな解決、か。響きが滑らかすぎて、かえって薄ら寒かった。この男の『解決』がどんな形になるか、だいたい見当はついた。相手が誰かも知らないうちから保証してみせるあたりが。
「嫌です」
「こう見えて、それくらいの力はあるんだぞ」
「あなたが社会的にどれだけ力を持っているか」
私は水のグラスを置いた。
「——興味ありません」
ヘンリーが衝撃を受けたように目を丸くした。その顔が少しおかしかったが、笑わずに言葉を継いだ。
「社会的な殻は、その人への判断を曇らせるんです。肩書きが高ければ立派に見えて、力が強ければ正しく見えて」
「……」
「私は、目の前の人を見て判断します。隊長がどういう人かは——今みたいに、こうして一緒に時間を過ごすことで十分です」
「……」
「それに」
私は彼の目をまっすぐ見た。
「私が解決すべき、私の問題です」
「……」
「情報のために手を借りることはできます。でも、その材料で解決するのは、私でなければならない」
言い終えると、静寂が流れた。
ヘンリーは何も言わなかった。笑いも、言い返しもしなかった。ただ私を見ていた。何と名づけていいかわからない表情だった。驚いているようでもあり、別の何かのようでもある。
「……なんで、そんな目で見るんですか」
「いや」
ヘンリーはゆっくりと背もたれに体をあずけた。
「『目の前の人を見て判断する』、か」
彼はその言葉を噛みしめるようにくり返した。それから窓の外へ視線を移した。夜の街の灯りが、その横顔に揺らめいていた。
「……それ、誰にでもできることじゃないぞ」
「え?」
「なんでもない」
ヘンリーが席を立った。いつもの顔に戻っていた。
「巡回に出るぞ。今日の分の俸給は払ったんだ、働いてもらわないとな?」
「もらった分はやります」
私は最後に水を一口飲んで、後に続いて立ち上がった。
折られたナプキンが、空になった皿の上に、ちょこんと載っていた。




