13
「アン、来たよ!」
私が呼ぶと、金色の後頭部がくるりとこちらを向いた。
一日に一度は必ず顔を合わせる、もうすっかり見慣れた顔だった。
「今日はめずらしく機嫌よさそうだね?」
「……君が、嬉しそうだから。」
いつも無表情を装っているけれど、よく見ればこれほど読みやすい顔もない。考えていることが全部おもてに出る、アンの顔。
「あのね、今日はお月が食べられそうなもの、持ってきたんだ」
私は「じゃーん」と、懐から猫のおやつを取り出した。前の日に料理長に頼んで作らせた、イビー特製レシピの手作り猫おやつだ。
試しに男爵邸のまわりの野良猫で検証まで済ませてある。
匂いを嗅いで狂ったように飛びついてきた野良猫を思い出しながら、期待に胸を高鳴らせて、アンの足元にいるお月を見つめた。
「にゃあ〜」
はたしてお月は私のおやつを気に入るだろうか?
お月が一歩、二歩と近づいてきた。
私はしゃがんで、ハンカチに包んだ猫おやつを開き、地面に広げた。
「お月ちゃん、これあんたの分だよ」
お月はおやつの前に立って、くんくんと匂いを嗅いだ。
ほかの猫は誰かに奪われまいと飛びついて食べていたのに、お月はずいぶん慎重だった。
私は思わず緊張して、ごくりと唾を飲んだ。
何度か嗅いでいたお月が、おやつを食べはじめた!
「食べてる!」
ぺちゃぺちゃと音を立てて黙々とおやつを食べるお月を見て、思わず「ばんざーい」と叫んでしまった。
私が「どうだ」と言わんばかりに得意げにアンを見ると、アンも少し微笑んだようだった。
私たちふたりは並んで座って、お月が食べるのを見守った。
「アンはいつも何あげてるの?」
「家から持ってきた肉、たまに。」
「じゃあ毎日あげてるわけじゃないんだ?」
「うん。お月は自分で食べてるみたい。私はたまにだけ。」
「お月とはどうやって出会ったの?」
「湖で、鳥と。」
「湖?」
「にゃーん」
私がもっと訊こうとすると、お月はおやつを食べ終えて、ごろごろと喉を鳴らしながら私の手に頭をこすりつけた。
「お月ちゃん、全部食べたね!」
私は嬉しくなって、お月を情熱的に撫でた。
そのあいだ、アンがすぐ横の花壇で草をむしっていた。花壇というより、長らく放置された雑草地帯だったけれど。
「これ、お月の好きな草。」
アンがむしってきた草を、お月の近くにこんもり積んだ。
「にゃ〜」
*あ、この世界ではキャットニップが野草として生えてるの?*
私が頭に疑問符を浮かべているあいだに、アンの言うとおり、お月はアンが抜いておいた草のほうへ近づいた。
そして、
食べはじめた。
「え?」
「……なんで?」
「猫は肉食だから草は食べないはずなんだけど……?」
「お月は食べるよ。」
「?」
「毎日食べる。」
*「猫は肉食」っていう常識は別の世界のものだから、ここの猫はそうかもしれない……の?*
私の顔に浮かんだ疑問符を見て、アンが話題を変えた。
「今日は運動しないの?」
アンの問いに、早朝の本分を思い出した。
「するよ。健全な精神は健全な肉体に宿る、っていうしね。」
「そう?」
「そう。」
私は、もうすっかり習慣になった早朝運動を、今日も始めた。
---
「メリー、今何時?」
「お昼です、お嬢様。」
私は目が覚めると、まずメリーを探した。
メリーを見つけると、目をこすってあくびをしながら時間を訊く。
「最近お加減が悪いんですか? ずいぶん寝る時間が増えましたね。」
「夜、ちょっと寝つきが悪くて。」
嘘ではなかった。夜に眠らないのだから、悪くする眠りそのものがない、というだけで。
「お昼寝が癖になるといけませんよ……。」
メリーの小言を子守唄がわりに、伸びをした。肩がなめらかに回った。初めてこの体で腕立て伏せをしたときは一回こなすのもやっとだったのに、最近は三十回こなしても翌日なんともない。怪しい茶と食事を控えてから、体が急速に健康になっていくようだった。筋肉痛がいつから来なくなったのか、思い出せもしない。
体というのは正直だ。やらせた分だけ返してくる。
---
午後の日課は書斎だった。
入るなり、まず百科事典を引っ張り出して、気になっていた項目を確かめた。
猫の項。肉食。ネズミと鳥と魚を捕って食べる。
この世界の百科事典も、私と同意見だった。
ではお月は何なのか。
私は本ごとその疑問符を伏せておいた。急ぎではない。草をはむ猫が世界を脅かすわけでもないのだから。
本業は系譜だった。
法典があれば一番よかったのだが、この書斎に法典はない。確認はこれで三度目だ。代わりに貴族の系譜は版が三種類もあった。私は一番傷んでいないものを開いて、先日のお茶会で見た顔を、活字の上に一つずつ重ねてみた。
ハリントン子爵家。丸。お茶会を主催できるだけの余裕と、主催しなければならないだけの野心。
アッシュフォード子爵家。丸二つ。これは私情だ。
ベクスター子爵家。ページが薄かった。領地も利権も特筆すべきものがない、平凡を通り越して退屈な家門。この家からあのベスが出たというのが、むしろ一番おかしな情報だった。丸の代わりに疑問符。
そうしてページをめくっていて、手が止まった。
ブレア。
家系図の太い線が、先代男爵から一人娘へと下りていた。
エヴァンジェリン・ブレア。
その横に、細い線が一本ぶら下がっていた。婚姻で入った夫の名。そしてその下に、ごく小さな字で、印刷ではなく人の筆跡で書かれていた。イビー・ブレア、と。
私はしばらくそのページを見ていた。
爵位は太い線を伝って流れる。つまりこの家の名は、もともとあの細い線のものではなかった。
十年以上前の本が教える、十年以上前の事実だった。
親の世代までしか印刷されていない古い本だから、サラもベスもいない。誰かが後から書き足した名、イビー・ブレアただ一つ。
ふと、別の顔が思い浮かんだ。
貴族の系譜に名のない、陽の隠れた時間に会う顔たち。
……よかった、と思った。
家門の名を先に知っていたら、今のような関係になれたかどうか、正直わからない。
私は本を閉じた。
系譜の次は休憩だった。
恋愛小説が一列に挿さっている書架の、一番下の段に目をやった。この書斎で唯一、背の擦り切れた本たちだった。歴史書も礼法書もぴんとしているのに、この段だけ手の触れた跡があった。
私はその中から一冊を抜き取った。題名からして幼稚だった。期待を床に下ろして、最初のページをめくった。
……。
三ページ目で姿勢を正した。
予想どおり幼稚だったが、手に汗握る面白さだった。恋愛小説の段はほとんど読み尽くしたのに、こんな傑作が隠れていたとは。書斎を隅々まで調べておいてよかった。
我に返ると、窓の外の陽が傾いていた。
---
食堂には、今日もまじめな食卓が整えられていた。
けれどあいにく、食卓は疑いをかけられた容疑者だったので、心置きなく手をつけるわけにはいかなかった。代わりに、毎晩隊長がおごってくれる食事が、その席をしっかり埋めていた。この心のこもった膳を残すのは心苦しいが、仕方なかった。
急に食事を断つのではなく、しばらくは食べるふりをすることにした。わざとつつくように食べながら、食卓の一覧を検めた。
茶葉は嫌疑なしと出た。ならば残るのは水、器、そしてこの食卓の上のもの。だが食卓が犯人だとすると、引っかかることがある。同じ釜の料理を使用人たちも食べる。メリーの歯茎はきれいだった。私だけを狙うには私の分にだけ手を加えねばならず、私の分に手を加えるには厨房を通らねばならず、厨房には——
料理長がいる。
ちょうど、挨拶する用もあった。
---
厨房は夕食の支度で慌ただしかった。戸口に立つ私を見つけた料理長が、エプロンで手を拭きながら駆け出てきた。
「お嬢様! 厨房までどうなさいました。」
「昨日のあのおやつのこと。よく食べたって伝えに来たの。」
「召し上がったんですか? その、猫が?」
「ええ。とても。」
料理長の顔がぱっとほころんだ。そして質問が降り注いだ。匂いは何度嗅いでいましたか。一度で全部食べましたか、残しましたか。噛む音はどうでした。私はまじめに答えた。ぺちゃぺちゃ音がして、一粒も残さなかった、と。
「次は塩気をもっと抜いてみます。鶏の皮を軽く焼いて混ぜれば。」
この人は、食べる口が猫でも本気だった。
「ところでお嬢様、最近すっかり残されますね。お口に合いませんか。」
「いいえ。お昼寝が増えて、食欲が遅く目覚めるだけなの。料理のせいじゃないわ。」
「よかったです。最近お嬢様がよく召し上がるので、作り甲斐があるんですよ。」
料理長はそう言って、ふと思い出したように付け加えた。
「あのサンドイッチというのもそうですが。パンのあいだに具を挟むなんて、どうしてそんな素晴らしいことを思いつかれたんです。まあ、男爵様も良いものを見つけるのは天才的な方ですからね。血は争えないと言いますし。」
血は争えない。
私は笑ってみせた。血は争えない——争う血があれば、の話だけれど。
そういえばあの人、ステーキだけは優雅に切り分けていた。この家の食卓の謎が、そこでようやく解けた。良い料理人は娘のためにいたのではない。自分が来る日のためにいたのだ。
厨房を出ながら、私は一覧を整理した。
料理長という人物は消した。厨房という場所は残しておいた。
---
部屋へ上がる廊下には、絵が数点かかっている。風景画が二点、静物画が一点、そして肖像画が一点。
毎日通り過ぎていた絵だった。
けれど今日は、肖像画の前で足が止まった。昼に見た活字が、まだ頭に残っていたからだ。名前が、顔を探していた。
若い女性だった。茶色というには淡く、金色というには濁った、どこかで見たことのある曖昧な色の髪。笑っているわけでもないのに、穏やかに見える目もと。額の下の小さな銘板には、こう記されていた。
エヴァンジェリン・ブレア。
「奥様です。」
振り返ると、メリーがシーツを抱えて立っていた。
「私はお会いしていません。私が来るずっと前に亡くなられたので。前の使用人から聞いただけです。」
「……どうして。」
「熱病だそうです。その年の冬、大きく流行ったとか。寝込まれてから半月で……。その年、王都だけで数百人がそうだったそうです。」
熱病。半月。数百人。
急性で、流行で、この家だけのことではなかった。
私は、少しのあいだ立てておいた仮説を、静かに消した。母の死は、私の歯茎の線とは別の種類のことだった。
メリーがシーツを抱えて下がったあと、私は肖像画をもう少し見た。
額の上に、うっすらと埃が乗っていた。片づけもせず、顧みもしない家の埃が。
私はつま先立ちになって、袖でその埃を一度だけ拭った。
そして部屋へ上がった。
---
「もうずいぶん慣れてきたじゃないか。」
夜の巡回、二本目の路地でヘンリーが言った。
「巡回なんて。何度か回れば大体わかりますよ。」
「大体、ね。」
「コツをつかんだって意味です。」
「助手一ヶ月目の自信ってやつか。」
ヘンリーは呆れた顔をしたが、足取りはそのままだった。フードをかぶって歩き、商人が声をかけてくると大げさに手を振ってやり、路地の角ごとに一度ずつ視線を置いていく、いつものあの歩き方。
そのときだった。
「泥棒だ——!」
路地の片隅で叫びが上がった。ヘンリーの手が剣の柄にかかっていた。私は壁際に張りついた。体が先にやることだった。
そして私たちは見た。
屋根の上へ登っていく茶色い猫を。口には、自分の胴ほどもある魚をくわえて。
「……。」
ヘンリーは剣の柄から、ごくゆっくりと手を離した。
「ああもう、またあいつか!」
宿屋の建物から主人が飛び出してきて、足を踏み鳴らした。ヘンリーは平然と近づいて、硬貨を数枚握らせた。
「治安維持費だ。」
「いや旦那、これは一体——」
「夜の平和には値段があるものでね。」
主人が呆然と硬貨を受け取っているあいだ、私は屋根を見上げた。猫はもう魚を食いちぎっていた。頭から、とてもおいしそうに。
「……猫は肉食で合ってますね。」
「……何?」
「なんでもありません。」
ヘンリーはしばらく私を見ていたが、それ以上詮索せず歩を進めた。最近わかったことだが、この人のこういうところは、なかなか楽だ。
残りの巡回は何事もなかった。酔っ払いが一人歌い、ヘンリーが音程を評価し、私は両方とも無視した。
「もう上がります。」
「おお、ご苦労さん。」
巡回が終わると、こうして詰所の前で別れる。
初対面は最悪だったあの男を上司に持って、いつのまにか一ヶ月。
彼は思ったよりまともな人だった。毎日書類を見て、巡回を回り、まじめに働く。もめ事が起きれば積極的に解決する。商人たちとの仲も良さそうだし、私の雇用は脅しから始まったけれど、無理に働かせはしない。要望があれば聞いてくれる。
そして、疑り深い人のようだったので、私を尾行でもするかと何度か罠を仕掛けたのに、一度も引っかからなかった。怪しい気配すらなかった。
まるで、"本物の"信頼関係を築きたい人のように振る舞った。
*指輪さえなければ、この人の下で働くのも悪くないかも。*
手をひらひら振って詰所へ入っていくヘンリーの後ろ姿に向かって、呼びかけた。
「隊長。」
「ん?」
ヘンリーが振り返った。
「隊長……それ、俺を呼んでるのか?」
「はい、これから隊長って呼ぼうと思って。いいでしょう?」
灯りに照らされたヘンリーの顔は、興味深そうに微笑んでいた。気に入ったらしい。
「ところで質問があります。隊長。」
「言ってみろ。」
「私、助手として働いた初日以外は、巡回しか回ってないんですけど。」
「それで?」
「夜もこれくらい平和だし。たまに事件が起きても、騎士たちがちゃんと対処する。正直、私が本当に必要なのかなって。」
巡回なら騎士たちも回っていた。治安隊が大きな組織でなくとも、夜の平和を守るには十分だった。わざわざ正体不明の子ども一人を連れて回る理由はない。
最初は監視だと思った。怪しい私をそばに置いて見張るつもりだと。それなら筋は通る。だが、もう何日も過ぎた。私もまじめに任務をこなしたし、かといって私を尾行したり探ろうともしない。毎日食事までおごって、この男はいまだに私を——
「そりゃあ、惜しいからな。」
「……惜しい?」
「どこにでも見せびらかすには惜しい。このまま手放すのも惜しい。」
「……」
*ふむ、私の非凡さを見抜くとは。納得がいく。目のある男だ。*
「今は寝かせているところ、とでもしておこう。良い品は蓄えておいて、いざというときに使うものだからな。」
「人を品物扱いするんですね。」
「褒め言葉だ。」
まあ、私にとっても悪くない取引ではある。認められるのは、少しばかり気分がよかった。
私はぺこりとお辞儀をした。
「これからよろしくお願いします! 隊長。」
「おう。」
"隊長"は、そのまま詰所へ入っていった。扉が閉まり、灯りの下の路地には私だけが残った。
平凡な一日が、こうして過ぎていく。
昼に見た系譜が、ふと思い浮かんだ。
書かれなかった系譜のどこかに、この人たちの席があるのかもしれない。けれど。
……
私はフードをかぶり直して、塀のほうへ歩いた。




