【1-4】絶望スローライフ
呼吸の仕方が分からない。
目の前が真っ暗になるのはこういうことだろう。
濡れた枕と頬がひたりと付いた。涙の冷たい感触は現実に引き戻すには少し弱すぎる。涙はもう出ないはずなのに、世界は歪んでいて、輪郭がはっきりしない。
「おい、赤目。死にそうなら外にしてくれ。死体を片付けるこっちの身にもなれ」
乱暴な蹴撃が、重い鉄の扉を震わせた。かつて俺に膝をつき、頭を下げていたはずの下級使用人の声だ。
返事をする気力もなかった。ただ、枕の奥へと深く顔を沈める。
「……チッ、ほら、お前の大好きな御馳走だ。さっさと食え」
冷え切った大きな音は扉に遮られ、諦めたのか遠のいていく。かつてアンネの側にいた時、俺を取り巻いていた偽りの敬意は、彼女がいなくなった途端に霧散した。
周囲にいた平民階級の従者は次々と解雇されており、直にいなくなるかもしれない。俺は、一応貴族の息子だからと今は後回しにされているのだろう。
後ろ盾のない俺に向けられるのは、隠そうともしない赤い目への嫌悪だけだ。
俺は一度大きなため息を吐いて、枕に顔を沈めた。冷えた枕は、葬儀の時、彼女の銀髪に触れた吹雪の冷たさを思い出す。
俺は、動かなかった。動く理由が、どこにも見当たらなかった。中流貴族としての礼儀作法も、教養も、彼女を守るためには何の役にも立たなかった。
あの時、彼女の手を掴んだ騎士の腕を、噛み切ってでも離させなければよかった。震えていた俺の足は、あの瞬間に折れてしまえばよかったんだ。
(……目が、熱い)
忌み嫌われた、この赤い目。
一族の恥だと罵られ、地下の隅に押し込められていた俺を、彼女だけが「美しい」と言った。
『私は、あなたのその目好きよ。赤は燃えるような意志の色。いつかきっと、誰かを愛せる美しい色よ』
「……ただ一人の、俺の神様」
俺の目は今、こんなにも暗くて、動くこともできない。
貴女がいない世界は色のない、硝子のような世界なのに。
俺が愛せるのは、君だけなのに。
ーーパキッ
静寂の広がる部屋で、何かが凍り付くような音がした。自分の肺が鳴らす浅い呼吸音も、すべてが硝子の向こう側へ遠のいていく。
このまま閉じこもってしまいたい。なのに、あの音が、氷の音が気になる。外を映すことを拒む瞼をわずかに持ち上げると、視界の端に、ありえないはずの色が灯っていた。
「アンネ……?」
それは、羽音すら立てなかった。
月明かりさえ届かないこの暗がりに、そこだけが青白い光を放ち、透き通っている。
氷でできた薄い翅を持つ一羽の蝶が、夜の深淵から滑り落ちるように、俺の鼻先まで降りてきた。
「あ……」
枯れた喉から、かすかな吐息が漏れる。
蝶は、地下の静寂をそのまま切り取ってきたかのような冷気を纏いながら、迷うことなく、俺の指先へと舞い降りた。
冷たい。冬の日の朝のようだ。
指先に止まった蝶の翅が、かすかに身体を震わせた。
その瞬間、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
冷たいはずの氷の蝶。なのに、そこからは俺の涙を拭ってくれた、温かい彼女の指先と同じものを感じる。
それは言葉ではなかった。けれど痛いほど伝わるこの気持ちは何だろうか。
「私はここにいる」と。
「諦めてなどいない」と。
視界は震え、左手はしわが出来るほど胸を掴んでいる。黒く染まった世界には、またあの日のような青い光が差し込んでくれた。
――ああ、そうか
これは、彼女が綴った、名前のない手紙なのだ。拍動する蝶から伝わるものは、彼女の魔力だ。
「アンネ……君は今も戦っているんだね」
かすんだ視界の輪郭がはっきりと見えてくる。硝子の世界に色がついていく。
パリン
役割を終えた青い蝶が、俺の指先で繊細な音を立てて砕け散っていく。俺はサラサラと消える粉のその一粒まで、手の中に閉じ込めた。
残ったのは冷気と、確かに消えない灯火。
アンネリーゼは生きている。
世界を変える神様が俺を必要としている。
俺は身体に、未練があるかのように纏わり付くシーツを跳ね除け、重たい扉のドアノブに手を乗せた。いざ捻ると、思っていたよりずっと軽く開いてしまう。
扉の前に置かれた、金属食器の冷え切った食事。きっと残飯か何かの詰め合わせだろう。俺は震える手でその皿を引き寄せて泥のようなスープを、貴族の所作で丁寧に、一口無理やり胃に流し込んだ。
吐き気がするほど冷淡な、けれど生きるために必要な味がする。
「待っててね、アンネ」
掌にはもう、砕けた蝶の欠片すら残っていない。それでも、彼女が残した冷たさだけが、火傷のように俺の指先に焼き付いている。
君が言葉を捨ててまで、俺に命を繋げと言うのなら。
この赤い目は、二度と絶望に伏せるために閉じたりはしない。




