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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
月光宮編:園遊会

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夜の医局と、命を懸けた暗号

 その日の夜更け。

 

 月光宮げっこうきゅうの皆が深い眠りにつき、草木すらも息を潜めるような静寂が訪れた頃。


 桂花ケイカは、着の身着のままの姿で、音もなく自分の部屋を抜け出した。

 

 元・暗殺者である凛花リンカのような、完全に気配を消す特殊な足さばきが出来るわけではない。


 それでも桂花は、暗闇の中で極限まで神経を研ぎ澄まし、小刻みに震える足を必死に前へと進めていた。


 向かう先は、後宮の奥深くから遠く離れた、外廷の医局がいていのいきょくのさらに奥。

 

 昼間の園遊会で大騒動を起こし、武官に捕まる寸前に自害したという、あの若い料理人の遺体が安置されている場所だ。


 普段の外廷であれば、夜間は厳重な警備が敷かれている。


 だが今夜は、昼間の毒物騒ぎの事後処理や、各宮の警備強化のために多くの武官が駆り出されているせいか、運良く医局の周囲には見張りの姿がなかった。

 

 桂花は、冷たい夜風に吹かれながら医局の裏口へと回り込み、軋む木の扉をそっと押し開けた。


 中に入ると、独特の薬草の匂いと、死を悼むための線香の煙が混ざり合った、ひどく冷たくて重い空気が桂花の肺を満たした。

 

 微かな灯籠の明かりだけを頼りに、彼女は冷たい石造りの床が続く安置室へと足を踏み入れる。


 そこには、身元不明の遺体や行き倒れを一時的に収容するための棺がいくつか並んでいた。


 その中で、最も新しく、まだ木の香りが残る白木の棺。

 

 桂花はそれに迷いなく近づくと、息を大きく吸い込み、震える両手でゆっくりと、重い蓋を押し開けた。


 中に横たわっていたのは、昼間の宴で毒を盛った実行犯の男。

 

 いや、桂花にとっては『ただの料理人』などではない。


「……っ」


 その顔を見た瞬間。


 桂花は両手で自分の口を強く覆い、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。

 

 閉じた目から、堰を切ったように大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ち、棺の縁を黒く濡らしていく。


 彼女は少し経ってからようやく目を開け、血の気を失い、蝋人形のように白く冷たくなった彼の頬にそっと手を当てた。


白英ハクエイ……っ」


 桂花の口から、掠れた悲鳴のような、愛おしい名前がこぼれ落ちる。


「どうして……どうして、あなたがこんなところにいるの……。私、昼間に会場から逃げるあなたの背中を見た時、すぐに白英だって気づいたよ……っ」


 冷たくなった彼の顔は、とても穏やかで、ただ深い眠りについているようにしか見えない。

 

 いつも優しくて、少し臆病で、桂花の後ろを影のようについて歩いていた幼馴染。


 その彼が、皇帝陛下や上級妃が集まる園遊会に単身で潜り込み、毒を仰いで自害したという事実が、桂花にはどうしても信じられなかった。


「……ねえ、白英。私、里の外で一人で旅をしている時、ずっと『秋英シュウエイ』って名乗ってたんだよ。いつでも里のこと、あなたのことを忘れないようにって……。なのに、どうしてあなたが一人で、こんな冷たい場所で……っ」


 桂花はポロポロと涙をこぼしながら、白英の冷たい胸にそっと顔を埋めた。

 

 彼の胸からはもう、あの温かい鼓動は聞こえない。


「ごめんね……。私が不甲斐ないばかりに、いつまでも迷っていたせいで、あなたにこんな恐ろしい役目を負わせて……」


 彼がなぜ、自らの命を投げ打ってまであのような大騒ぎを起こしたのか。


 桂花には、痛いほどに分かっていた。

 

 後宮という外界から完全に遮断された場所。


 外からの手紙すら厳しく検閲されるこの美しき牢獄で、彼が桂花にどうしても伝えなければならない『緊急の知らせ』があったのだ。

 

 だから彼は、あえて命の危険を冒して宴に潜り込み、彼女にしか分からない『特定の毒』を使って、強引に騒ぎを起こした。


 桂花は、やがて震える手で乱暴に涙を拭い、顔を上げた。

 

 その瞳には、先ほどまでの悲しみや絶望だけでなく、追い詰められた者特有の悲壮な『覚悟』が、暗い炎のように宿り始めていた。


「……分かってる。いつも慎重だったあなたが、命を懸けてまでこんな無茶をして、私に知らせようとしたんだよね。……里を乗っ取ったあの男たちが、いよいよ本格的に動き出したって。もう、私に残された『時間はない』んだって」


 桂花は、白英の冷たい手を両手でぎゅっと握り締め、彼に向かって、そして自分自身に言い聞かせるように、震える声で誓った。


「……ごめんね。でも、もう絶対に逃げないよ。あなたの命がけの警告、絶対に無駄にしないから」


 桂花はゆっくりと立ち上がり、静かに、いとおしむように棺の蓋を閉めた。


 ゴトリ、と重い木が合わさる音が、彼女の過去との決別を告げるように冷たい地下室に響く。

 

 月光宮で「おこげ」を追いかけ、明苺たちと他愛のない恋話で笑い合っていた、あの無邪気な下女の桂花はもういない。


 そこにあるのは、一族の命運をその細い両肩に背負い、退路を完全に断たれた一人の少女の横顔だった。


「もう、綺麗事は言ってられない。……あの子に、すべての『真相』を打ち明けるよ」


 桂花は、自分の部屋で今頃安らかに眠っているであろう、凛花の顔を思い浮かべた。

 

 後宮で出会い、共に笑い合い、何気ない日常を過ごしてきた大切な親友。


 彼女をこれ以上、この後宮の安全な檻の中に留めておくことはできない。


 彼女を、あの血塗られた裏社会の争いに引きずり込むことになってしまう。


「里だけじゃない。私が匿っている『あの方』の命も……もう、危ないんだから……っ」


 桂花は医局の扉を静かに閉め、暗闇の中を、自分の宮へと向かって走り出した。

 

 白英が命を懸けて繋いだ、わずかな時間。今度は自分が動く番だ。


 彼女の残した小さな一枚の紙片が、翌夜、凛花の運命の歯車を激しく回すことになるとは、まだ誰も知らなかった。

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