無差別の警告と、逆転する推理
叡明様の執務室は、ひどく重苦しい沈黙に包まれていた。
「だが、それでは狙った相手に確実に当たるとは限らんだろう?」
長椅子に深く腰掛けた叡明様が、鋭い視線を私に向けて問いかける。
私はその視線を真っ直ぐに受け止め、静かに首を横に振った。
「はい。ですから――犯人は最初から『確実性』など求めていないのです」
「……どういう意味だ」
「実行犯であるあの料理人は、標的の顔を知らなかった。誰を殺せばいいのか分からない状態で毒を盛るならば、的を絞って狙うのではなく、標的が属する集団全体に毒を『含める』しかありません」
「含める、だと?」
「ええ。侍女全体に毒をばらまけば、その中に標的が含まれる可能性は極めて高くなります」
私の説明に、叡明様は苦々しげに顔を歪めた。
「つまり……誰か一人にでも当たればよい、というわけか」
「はい。仮に標的に当たらなかったとしても、毒味を終えた菓子を食べた侍女の誰かが倒れれば、会場は必ず大きな騒ぎになります。犯人にとっては、それだけでも十分に価値があるのでしょう」
「……だが、それだけか? ただ騒ぎを起こすためだけに、あのような危険を冒したとでも言うのか」
叡明様の鋭い追及に、私は机の上の菓子の破片を見つめながら、決定的な事実を口にした。
「いいえ。この事件の最も不可解な点はそこにあるんです。……これは、殺害が目的ではありません」
「……何だと?」
「あの菓子に仕込まれていたのは、腹痛や軽い痺れを引き起こす程度のものです。命を奪うには弱すぎる。つまりこれは、相手の命を奪うための暗殺ではなく……『警告』です」
私が言い切ると、叡明様が怪訝そうに眉をひそめた。
「警告だと?」
「料理人は標的の顔を知らない。それでもあえてこの強引な方法を取ったということは、『お前たちにいつでも手を出せるのだ』という事実を示したかったのです」
「……力と恐怖の、見せつけですね」
背後で黙って聞いていた高星様が、低く押し殺した声で呟いた。
「はい。絶対に安全なはずの園遊会の毒味の監視網を崩し、侍女たちの口にまで毒を通してみせた。つまり――『お前たちの守りなど、全く機能していない』という強烈な誇示です」
「そして、その標的は……」
叡明様が言葉を切る。私はその先を引き継いだ。
「この場にいた侍女の誰か。あるいは――『その惨状を見ている者』に向けて放たれた警告、ですね」
「犯人の顔を知っている者、か」
叡明様は深く息を吐き出し、険しい表情で自身の顎を撫でた。
「だが待て。あの菓子は、皇帝陛下や上級妃たちも口にするものだったはずだな?」
「はい」
私は静かに頷き、宴の進行について補足した。
「ですが、園遊会のような宴では、料理は決められた順番通りにゆっくりと出されます。主賓である陛下や妃様方がお菓子を口にされるまでには、かなりの時間がかかります」
「一方で、毒味を終えて安全が確認された後、裏に下ろされたお菓子が侍女たちへ配られれば……彼女たちの方が、ずっと先に口にすることになるのです」
「……そうか。すべては奴の狙い通り、計算し尽くされていたということか」
叡明様は忌々しげに机を叩き、深く息を吐き出した。
「今日はあの騒ぎだ、これ以上の追及は難しいな。……凛花、お前はひとまず芙蓉妃の元へ戻ってくれ」
「分かりました」
私は深く頭を下げ、足早に執務室を出た。
扉が閉まる直前、背中の後ろで叡明様の重いため息が聞こえる。
「一難去ってまた一難か……。まったく、休む暇もない。高星、明日から各宮の侍女たちに個別に事情を聞く。手配を頼む」
「承知いたしました」
高星様が深く頭を下げるのを最後に、重い木扉が完全に閉ざされた。
執務室を後にし、私は冷たい夜風が吹き抜ける回廊を月光宮へと向かって歩いていた。
靴音が石畳に響く中、私の頭の中では先ほどの推理が渦を巻き続けていた。
(一つ、どうしても引っかかることがある……)
料理人は、標的の顔を知らなかった。
それなのに、なぜ『標的が侍女の中にいる』ということだけは知っていたのだろうか?
それに、使われた毒は死に至るようなものではない。
誰かに大金を積まれて依頼された、暗殺者の手口とは思えないのだ。
(時間をかけてじっくりと調査すれば、標的の顔や素性を絞り込めたかもしれない。そうすれば、もっと確実で、誰にも気づかれない暗殺計画を立てられたはず……)
それなのに、なぜ犯人はこんなにも性急で、周囲を巻き込むような目立つ手段に打って出たのか。
歩みを止め、暗い中庭を見つめる。
絡み合っていた糸が、頭の中でふつりと解けた。
(……まさか)
私はハッとして顔を上げた。
「時間をかけなかった」のではない。
「時間をかけられなかった」のだ。
そして、あの毒の真の目的が「敵への脅し」ではないとしたら。
「違う……。『逆だったんだ』」
誰もいない夜の回廊に、私の呟きが震えて溶けた。
点と点が繋がり、あまりにも悲しい真実の輪郭が浮かび上がり始めていた。
背筋を凍りつくような悪寒が駆け抜け、呼吸が浅くなる。
私は早鐘のように打つ胸を押さえ、急いで月光宮へと走り出した。




