華麗なる変身と、逃げ場のないお茶会準備
昨夜の執務室での、叡明様とのどこか甘く静かな時間が、朝になってもまだ頭の片隅にこびりついて離れなかった。
自分の心臓が跳ねたあの瞬間の感情を無理やり振り払うように、私はいつもより少し早足で月光宮へと向かった。
「……あれ?」
月光宮の門をくぐると、いつもは優雅で落ち着いた空気が流れているはずの庭園が、ひどく慌ただしい熱気に包まれていた。
色とりどりの絹布を抱えた女官たちが小走りで回廊を行き交い、どこからか白粉や香油の甘い匂いが漂ってくる。
「あ、凛花!おかえりなさい!」
大量の髪飾りが入った木箱を抱えた小蘭が、私を見つけるなりパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「おはようございます、小蘭。朝からずいぶん騒がしいけど、何かあったの?」
「何かって、今日はいよいよ『園遊会』の日だよ!もう、準備が大変で目が回りそう! 凛花も早く手伝って!」
小蘭に腕を引かれながら、私は首を傾げた。
「園遊会……?」
「皇帝陛下をはじめ、後宮の頂点に立つ四人の上級妃様方が一堂に会する、年に二度の盛大なお茶会です」
奥から歩いてきた侍女頭の静が、ピシッとした声で補足してくれた。
参加するのは、私たちの主である芙蓉様、美容に執念を燃やす麗様、そして私がまだ直接顔を見たことのない瑠璃様と、軍師のような知恵を持つという雪華様の四人だ。
「……なるほど。それは確かに、一大行事ですね」
「ええ。そして今回、芙蓉妃様の特別なお供として、私と小蘭、そして凛花、明苺、桂花の三名も同行することになりました。……他宮の妃様方の前で恥をかくわけにはいきません。あなたたち三人にも、相応の衣装と化粧を施します!」
静の気合の入った宣言に、私は思わず後ずさったが、すでに月光宮の奥の部屋には、私たち用の豪奢な衣装がずらりと並べられていた。
「わぁっ! すっごく綺麗な着物!」
いち早く着替えを終えて出てきたのは、桂花だった。
若草色と桃色を基調とした華やかな衣装に身を包み、いつもより少し大人びた紅を引いた彼女の姿を見た瞬間。
私の脳裏に、ふと『ある記憶』がフラッシュバックした。
(……あれ?この桂花の化粧の仕方……どこかで……)
ふと、私の脳裏に『外の世界の眩しい光』と、誰かの『ふわりとした甘い香り』がよぎった。
一瞬だけ記憶の底に沈んでいたその断片が、目の前の桂花の姿と重なったような気がした。
だが、私はすぐに小さく頭を振った。
こんな後宮の最下層で働く下女と、外の世界の記憶が結びつくはずがない。
生きている世界が違いすぎるのだ。
気のせいに決まっている。
「……うん、桂花、すごくよく似合ってるよ。とっても綺麗」
「えへへ、本当?凛花に褒められると照れちゃうな!」
屈託のない笑顔でくるくると回る彼女を見て、私は自分の考え過ぎだろうと、その微かな違和感を心の奥底へと完全に仕舞い込んだ。
桂花と笑い合っていると、今度は奥の衝立の向こうから、ひどくもじもじとした様子でもう一人が姿を現した。
「……あの、これ。おかしくないかな……?」
現れたその姿を見て、私は文字通り絶句し、「……誰?」と間の抜けた声を漏らしてしまった。
そこに立っていたのは、洗い場で共に馬鈴薯を剥いていたあの明苺ではなかった。
深い群青色の絹の衣を身に纏い、丁寧に結い上げられた髪に銀の簪を挿した彼女は、まるでどこかの高貴な深窓の令嬢のように、息を呑むほど美しかったのだ。
もともと整っていた目鼻立ちが、完璧な化粧によって最大限に引き出されている。
「すっごーい!明苺、すっごく綺麗だよ!これなら絶対に素敵な武官様が振り向いてくれるって!」
「ほ、本当?なんだか落ち着かなくて……」
桂花にベタ褒めされ、明苺が顔を真っ赤にして両頬を押さえる。
「さあ、次はいよいよ凛花の番よ!その顔の泥を完璧に落として、最高の化粧をしてあげるわ!」
静と小蘭が、白粉の刷毛と真紅の衣装を手に、ジリジリと私ににじり寄ってきた。
私はサァッと血の気を引かせた。
「わ、私は大丈夫です!私はただの毒味役ですし、目立たないように石ころのように控えていますから、いつもの灰色の服で十分……!」
私は言い訳を並べ立てながら、無音の足さばきで、するりと部屋の入り口へ向かって逃亡を図った。
だが。
「――逃がさないよ、凛花」
「今日ばっかりは、私たちにつき合ってもらうからね!」
退路を塞ぐように、いつの間にか背後に回り込んでいた桂花と明苺が、私の両腕をガシッと力強く捕らえた。
「なっ……!?二人とも、いつの間に後ろに……っ、離して、私は(馬鈴薯)剥き係の誇りを――!」
「諦めなさい、凛花!今日は芙蓉妃様の顔に泥を塗らせるわけにはいかないのよ!」
静の容赦ない号令とともに、私は三人がかりで化粧台の前へと引きずり込まれた。
――それから半刻後。
「……ふぅ。完璧です」
静が満足げなため息をつき、私から手を離した。
「もうお嫁にいけない……」と内心で涙を流しながら、私は促されるままに立ち上がり、皆の方へと振り返った。
その瞬間。
部屋の空気が、ピシリと凍りついたように静まり返った。
明苺は口をぽかんと開けたまま固まり、桂花は目を丸くして息を呑んでいる。
静や小蘭に至っては、まるで神仏でも目の当たりにしたかのように、呆然と私を見つめていた。
鏡の中にいる私は、真紅と漆黒を織り交ぜた豪奢な衣を纏い、わざと隠していた白磁のような素肌を惜しげもなく晒している。
前髪はすっきりと上げられ、凛とした知性を感じさせる瞳の端には、妖艶な薄紅が引かれていた。
それは、ただの美しい女官という枠を軽々と飛び越え、見る者をひれ伏させるような、圧倒的で魔性すら帯びた「絶世の美貌」だった。
「……どう、ですか。やっぱり、私には派手すぎて似合わないんじゃ……」
私が居心地の悪さに身じろぎすると、御簾の奥で一部始終を見ていた芙蓉妃が、静かに歩み出てきた。
「あらあら……」
芙蓉妃は、目を細めて嬉しそうに微笑むと、私の頬にそっと優しく触れた。
「本当に、見事な花が咲いたわね。……凛花、今日のあなたは、間違いなくこの園遊会で一番の視線を集めることになるわ。覚悟しておきなさいな」




