月明かりの夜食と、甘く溶ける疲労
「凛花殿……。実は、叡明様が最近、夜に一食しか召し上がっていないのです」
その日の夕刻。医務室からの帰り道で顔を合わせた高星様は、目の下に濃いクマを作りながら、消え入るような声で私にそうこぼした。
聞けば、連日の後宮内の事後処理に加え、外部の不穏な動きに対する警戒で、執政官としての業務が完全に許容量を超えているらしい。
(……夜に一食だけ、ね)
暗殺一族にいた頃から己を厳しく律する習慣で、私自身も基本的に一日に一食しか食べない生活を続けている。
だからその身軽さはよく分かるのだが、頭脳労働の極みである文官のトップが、ただ食事を抜いて栄養不足に陥るのは全くの別問題だ。
「分かりました。私が何か、頭の働きと疲労回復に効くものを見繕って持っていきます」
高星様を安心させ、私は急いで特別厨房へと向かった。
用意するのは、疲れ切った胃腸でも重くならず、かつ確実に活力を生み出す夜食だ。
まず手に取ったのは、青魚――鯖の水煮。ちょうど手のひらに乗るほどの、脂の乗った身を丁寧にほぐし、骨を取り除く。
青魚の脂は、頭を酷使する人間の脳の働きを劇的に助け、血の巡りを良くする最高の特効薬だ。
次に、たっぷりの新鮮な葉野菜を使った「疲労回復の冷菜」。味の決め手となる特製のかけ汁には、爽やかな酸味のある『りんご酢』をベースに選んだ。
そこに、疲労物質を分解する効果を高めるため、極微量の『梅を干して挽いた粉』をひとつまみ溶かし込み、粗く砕いた黒胡椒でピリッと味を引き締める。
主食については、最初は片手で手軽に食べられる握り飯にしようかとも考えた。
だが、今の叡明様に本当に必要なのは、芯からの活力と腸内環境の改善だ。
私は方針を変更し、ふっくらと炊き上がった温かい白米と、粘り気が出るまでよく練り上げた発酵食品――『納豆』を小鉢に添えることにした。
「よし、完璧ね」
出来上がった夜食をお盆に乗せ、私はひっそりと静まり返った夜の回廊を歩き、叡明様の執務室へと向かった。
「……入れ」
扉を叩くと、低く掠れた声が響いた。
月明かりだけが頼りの薄暗い執務室の中、叡明様は机に山と積まれた書類の束に囲まれ、眉間に深い皺を刻んで筆を走らせていた。
「夜分遅くに失礼します、叡明様。……夜に一食しか召し上がっていないと伺いましたので、夜食をお持ちしました」
「……凛花か」
私の姿を見た瞬間、彼の纏っていたピリピリとした冷たい空気が、ふっと緩んでほどけていくのが分かった。
叡明様は筆を置き、私が机の端に並べた食事に目を向ける。
「鯖の水煮と、納豆ご飯……。それに、ずいぶんと酸味の強そうな香りのする冷菜だな」
「ええ。特製のかけ汁にはりんご酢と梅を干して挽いた粉を使っています。黒胡椒も効かせているので、一口食べれば目が覚めますよ。それに、納豆は疲れた胃腸を整える万能薬です。さあ、冷めないうちにどうぞ」
促されるまま、叡明様は箸を手に取り、まずは冷菜を口に運んだ。
瞬間、彼の目がわずかに見開かれる。
「……酸っぱいな。だが……不思議と嫌じゃない。むしろ、焼け付くようだった胃の腑に、このりんご酢の酸味と胡椒の刺激が心地よく染み渡る」
「でしょう? 疲労が溜まっている時ほど、体はそういう酸味を求めるんです」
叡明様は、無言で鯖の身をほぐし、納豆を乗せた白米と共にかき込み始めた。
普段の優雅な執政官としての所作からは想像もつかないほど、その箸の動きは貪欲で、彼がいかに限界まで心身をすり減らしていたかが伝わってくる。
「……そういえば、昨夜はありがとうございました」
彼が食事を進めるのを見守りながら、私は静かに口を開いた。
「お父様――梟仙と、二人でしっかり話す時間を作っていただいたこと。……おかげで、ずっと胸の奥につかえていたものが、少しだけ軽くなりました」
「……そうか。あの武神が相手では、気苦労も絶えなかっただろうがな」
叡明様は箸を休め、窓の外の月を見上げながら微かに口角を上げた。
「父親としての彼に会えたのは喜ばしいことだ。だが……お前が後宮からいなくなるのは、今の私には到底許容できそうにない」
「……」
「お前の作るものは、本当に疲れた時に……一番美味いな」
叡明様が、ぽつりと本音をこぼす。
月明かりの差し込む静かな執務室。父である梟仙と再会した時の、あの賑やかでどこか懐かしい親子の時間とは違う。
今の叡明様との間に流れているのは、もっと静かで、落ち着いていて、それでいて……砂糖菓子がゆっくりと溶けていくような、ひどく甘い空気だった。
(……なんだろう、この感じ)
トクン、と。私の心臓が、自分の意志とは無関係に微かに跳ねる。
彼の熱を帯びた視線が、私を真っ直ぐに捕らえて離さない。
胸の奥が締め付けられるように苦しくて、でも、決して不快ではない、この未知の感情の正体が分からない。
「っ……そ、粗茶をお淹れしますね!あ、でももう今夜は遅いですし、私は明日の月光宮の仕事に備えて、こちらの隣室で休ませていただきますから!」
私は、自分の中に芽生えかけたその感情から逃げるように、弾かれたように立ち上がった。
背後で、叡明様が小さく吹き出して笑う声が聞こえた気がしたが、私は振り返ることなく、逃げるように自室へと駆け込んだのだった。




