医務室の猫と、静かに忍び寄る薬草不足
昨日の午後、明苺や桂花と共に月光宮の庭で過ごした穏やかなお茶会の余韻が、私の中にまだほんのりと温かく残っていた。
無自覚に赤くなってしまった頬を二人にからかわれたことを思い出すと、今でも少しだけ気恥ずかしさが込み上げてくる。
そんな他愛のない感傷を春風と一緒に振り払いながら、私は翌朝の澄んだ空気の中、薬膳の材料を補充するために医務室へと足を運んでいた。
医務室の扉に手を掛けると、様々な種類の乾燥させた薬草や樹皮の香りが混ざり合った、埃っぽくもどこか心が落ち着く独特の匂いが鼻をくすぐる。
「失礼します、瑞祥様。薬膳の材料を少し分けていただきたくて……」
私が部屋の中へ足を踏み入れた瞬間だった。
「わわっ!? ああっ、ちょっと待って……!」
ガタンッ! ドタンッ!
部屋の奥で、盛大な物音が響き渡った。
見れば、高い棚から薬箱を下ろそうとしていた瑞祥が、足元に何もない平坦な床で見事につまずき、盛大に転倒しているところだった。
空中に放り出された数枚の紙片が、まるで雪のようにひらひらと彼の頭上に舞い落ちていく。
「あいたた……。またやってしまった……」
「……おはようございます、瑞祥さん。お怪我はありませんか?」
私は小さくため息をつきながら駆け寄り、床に散らばった紙片を拾い集めつつ、彼が立ち上がるのを手伝った。
相変わらず、彼の周りだけ重力がおかしいのではないかと疑いたくなるほどの転びっぷりである。
「おはよう、凛花さん。ありがとう、助かったよ。どうも最近、足元がおぼつかなくてね」
瑞祥は困ったように笑いながら、衣服の埃を払った。
そんな私たちの騒がしいやり取りをよそに、部屋の窓際に置かれた長椅子の上では、茶色と黒の毛並みを持つ丸い毛玉――おこげが、気持ちよさそうに丸くなって昼寝をしていた。
「おこげは、すっかりこの医務室の主みたいになっていますね」
「うん、日当たりが良いのが気に入ったみたいでね。僕が転んでも、最近は耳をピクッと動かすだけで薄目を開けて見て見ぬ振りをするようになったんだ。少し寂しいけれど、可愛いから許してしまうよ」
瑞祥が苦笑しながらおこげの頭を撫でると、おこげは喉をごろごろと鳴らして応えた。
ここがすっかり自分の縄張りだと認識しているらしい。
「それで、今日は薬膳の材料だったね。欲しいものを言ってくれたら出すよ。……実は最近、後宮の女官たちの間で疲れや肌荒れが流行っているみたいでね」
「僕も色々と相談を受けるんだけど、どうしても胃薬や傷薬の処方が専門になってしまって、美容や滋養の面は手探りなんだ」
瑞祥が棚の方へ歩きながら、少し悩ましげにこぼした。
後宮という閉ざされた空間では、人間関係の摩擦や終わりのない業務による疲労が蓄積しやすい。
それに加えて、季節の変わり目による空気の乾燥も影響しているのだろう。
後宮で生きる女性たちにとって、肌荒れは心の荒れに直結する死活問題だ。
「それなら、簡単な『薬膳茶』を試してみるよう勧めてみてはいかがですか?」
「薬膳茶、かい?」
「ええ。たとえば、クコの実とナツメ、それに少しの菊花を熱湯で蒸らすだけで、血の巡りが良くなって肌に潤いが戻りますし、眼精疲労にも効きます。香りも良いので、張り詰めた神経を休める安神の作用もありますよ」
私が手元の材料を指差しながらさらりと手順を伝えると、瑞祥は目を輝かせて手元の紙に猛然と書き込み始めた。
「なるほど、クコの実とナツメに菊花か!それなら材料の蓄えも十分にあるし、お茶として淹れるだけなら彼女たちも日常に取り入れやすいね。凛花さん、君の知識は本当に素晴らしいよ。助かる!」
「いえ、私は美味しいものを作る延長で知っているだけですから」
私はいつものように謙遜しつつ、自分の手籠に夕食の仕込みに必要な陳皮や生姜、八角などの香辛料や薬草を選んで入れていく。
しかし、その様子を隣で見ていた瑞祥が、ある一つの引き出しを開けたまま、ふと首を傾げた。
「……あれ? おかしいな。こっちの引き出しも、随分と減りが早い」
「どうしたんですか?」
私が尋ねると、瑞祥は眉間に深いシワを寄せて、いくつかの引き出しを順番に開け閉めし始めた。
「いやね。最近、特定の薬草の消費が妙に早いんだ。後宮内で大きな怪我人が出たという報告はないのに、強い止血作用を持つ『三七』や、化膿止めの薬草がどんどん減っている。それに……」
「それに?」
「特定の毒を中和するための強力な解毒剤の材料もだよ。普段なら一年経ってもほとんど減らないようなものまで、底を突きかけているんだ」
「しかも、外部の問屋に発注をかけているのに、最近はどういうわけか入荷が少し滞っていてね。ただの天候不良による不作ならいいんだけど……」
瑞祥は「僕の管理不足かなぁ」と呑気に頭を掻いているが。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に、氷を滑らせたような冷たい悪寒が走った。
(……傷薬の主成分と、強力な解毒剤の材料が、同時に不足している?)
平和な後宮の中で、そんな特定の物資だけが偶然大量に消費されることなどあり得ない。
鉄錆のような血の匂いと、内臓を灼くような毒の気配が、記憶の底からふわりと蘇る。
止血、化膿止め、そして解毒。
それらが大量に必要になる状況。
それはつまり――『血が大量に流れる事態』、あるいは『猛毒が飛び交う殺し合い』が、どこかで起きている、もしくは起きようとしている証拠だ。
さらに、外部からの入荷が滞っているということは、後宮の外、帝都の闇市や裏社会の流通網で、誰かが意図的にそれらの薬草を買い占めている可能性がある。
(……ただの偶然だろうか。それとも……)
かつて黒蓮という暗殺一族で生きてきた、私の『毒を扱う者』としての本能的な嗅覚が、激しく警鐘を鳴らしていた。
後宮の外で、間違いなく何かが起きている。ひどくキナ臭く、血生臭い動きが。
「……凛花さん?どうかしたかい?顔色が少し悪いけれど」
瑞祥の声にハッとして我に返る。
私は、手の中で無意識に強く握りしめていた薬草の束をゆっくりと緩め、なんでもないように笑顔を作った。
「いえ、なんでもありません。少し、夜更かしがたたったみたいです」
「そうかい? 君も働きすぎには注意してね。執政官様の専属に加えて、月光宮の仕事まで掛け持ちしているんだから」
「ありがとうございます。それでは、こちらの材料、いただいていきますね」
私は手籠を抱え、瑞祥に丁寧に頭を下げて医務室を後にした。
回廊に出ると、春の暖かな日差しが降り注いでいたが、私の胸の奥に芽生えたごくわずかな『違和感の種』は、消えることなく静かに根を張り始めていた。
しかし、今の私にできることはない。深く考えたところで、ただの下女である私に後宮の外の情勢など探りようがないのだから。
(私には関係ない)
私は小さく頭を振り、自分に言い聞かせるように、叡明様のために作る今夜の夜食の献立へと無理やり思考を切り替えた。




