月明かりの下、親子の再会
その日の夜。
凛花は自室で静かに、粗末な手鏡と向き合っていた。
後宮に入って以来、己の身を守るため、そして目立たずに情報を集めるために、毎日欠かさず顔に塗りたくっていた泥。
醜い痣を作り、肌をくすませていたその偽りの化粧を、今夜は手ぬぐいと冷たい水で念入りに洗い流した。
ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。
水面に映るのは、透き通るような白磁の肌と、夜の闇に溶け込むような艶やかな黒髪。
凛花本来の、息を呑むほどに美しい素顔だった。
(お父様に会うのだから……偽りの私のままではいけない)
叡明様から指定された場所は、後宮の境界近くにある、夜には誰も寄り付かない静かな東屋だった。
月明かりだけが頼りの薄暗い道を歩きながら、凛花はどう声をかければいいのか、ずっと悩み続けていた。
幼い頃の記憶にある、いつも優しく微笑んでいた細身の父。
そして、昼間に執務室で「愛娘だ!」と大暴れしていた討伐隊頂点にして巨漢の武神、梟仙。
その二つが頭の中でどうしても上手く重ならず、再会への期待と共に、戸惑いで足取りは少し重かった。
東屋に着くと、そこには既に大柄な影が静かに佇んでいた。
梟仙だった。
昼間の騒がしさが幻であったかのように、彼は腕を組み、静かに夜空の月を見上げている。
その背中からは、長年一人で死線を潜り抜け、家族を探し続けてきた男の孤独と、どこか深い哀愁が漂っていた。
(なんて声をかければ……。お父様、って……)
物陰から少しだけ顔を出し、躊躇う凛花。
しかし、凄腕の武官である梟仙が、その微かな衣擦れの音や気配に気づかないはずがなかった。
ゆっくりと振り返った梟仙の視線が、月明かりに照らされた素顔の凛花を真っ直ぐに捉える。
一瞬の、永遠にも似た静寂。
梟仙は驚くことも、昼間のように大声を出すこともなく、ただひどく優しく、微かに震える声でその名を呼んだ。
「……凛花」
そのたった一言。
不器用で、けれど海のように深い愛情に満ちた昔のままの響きに、凛花の胸の奥で何かがスッと溶けていくのを感じた。
張り詰めていた警戒心が解け、不思議なほどの安心感が全身を包み込む。迷っていた足が自然と前へ進んでいた。
「……お待たせしました」
凛花はゆっくりと歩み寄り、梟仙の隣に並ぶような形で、冷たい石のベンチに腰を下ろした。
雲が切れ、美しい月明かりが差し込んで二人を柔らかく照らし出す。
梟仙は、隣に座る娘の横顔を、まるで壊れ物を扱うかのように眩しそうに見つめた。
「凛花……本当に、大きくなったな。よく……よく生きて、無事でいてくれた」
その声には、幾度もの絶望を乗り越え、奇跡にすがるように祈り続けてきた親の、魂からの響きがあった。
「はい。……お父様も、無事でよかったです。本当に」
凛花が涙をこらえてまっすぐに目を見て答えると、梟仙は少しだけ照れくさそうに目元を拭い、そして真剣な顔つきになった。
「それにしても、あのママの子供だからな……本当に、見違えるほど美しくなった。泥で隠していた気持ちも分かる。このままでは、どこぞの上級妃にされてしまいそうだ」
梟仙はぐるりと周囲を警戒するように見回し、鼻息を荒くする。
「変な虫はついていないか? パパは、あの執政官がどうにも怪しいと睨んでいるのだが!」
昼間の名残を見せる父の過保護な様子に、凛花は張り詰めていた肩の力が抜け、思わずクスリと笑みをこぼした。
「大丈夫ですよ。叡明様は私を女官として高く評価して、とてもよくしてくださっています。それに、今は月光宮と執務室の往復ばかりで、他の男性と接する機会なんてほとんどありませんから」
最初は数年という空白の歳月のせいで少しぎこちなかった二人だったが、言葉を交わすうちに、かつての家族の温かい空気が自然と戻ってきた。
それから二人は、あの日から今日に至るまでの数年間の空白を、少しずつ埋め合わせるように語り合った。
夜風が静かに木々を揺らす中、ぽつりぽつりと交わされる言葉たち。
しかし、互いが持つ後宮の情報をどれだけすり合わせても、母である明霞の行方だけは、不自然なほどに『空白』のままだった。
「お父様は、私よりもずっと長く後宮にいて、討伐隊として広い情報網も持っているはず……それでも何の手がかりもないということは……」
凛花は月明かりに照らされた庭の木々を見つめながら推測する。
「お母様は、どこかで意図的に身を隠しているか、あるいは……外部との接触を完全に絶てるような強力な権力者に匿われている可能性が高いのではないでしょうか」
「ああ、パパもそう見ている」
梟仙は重々しく頷き、凛花の肩にポンと大きな手を置いた。
その手は、昔よりもずっと分厚く、硬くなっていた。
「凛花。とりあえず、お前は現状の女官としての生活をそのまま続けるとしよう。最近は後宮内でもキナ臭い問題が多く起きているようだからな」
「まだ裏で何が動いているか分からん。……いいか、何か少しでも危険を感じたら、すぐにパパを呼べ。どんな壁を壊してでも駆けつける」
「……はい。頼りにしています、お父様」
頼もしい父の言葉と、その手の温もりに触れ、凛花はずっと胸の奥に分厚い氷のように閉じ込めていた、小さな子供のような本音をぽつりと零した。
「私……ずっと、ずっと、お父様が言っていた通り、馬鈴薯の皮を剥き続けていました」
「……凛花」
「暗くて、怖くて、心が壊れそうになる夜も……ただひたすらに、心を無にして馬鈴薯を剥いて、自分を保ちました」
「そうしていれば、いつか必ず、またお父様たちに会えるって……そう信じることができたから」
「……そして、本当に会えた。だから……」
凛花の言葉が微かに震え、瞳から堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちる。
梟仙は、その細い肩を優しく、力強く抱き寄せた。
「ああ、よく頑張ったな。えらいぞ、凛花。一人で、よく耐え抜いた」
背中を撫でる父の手の感覚に、凛花は声を殺して泣いた。
「大丈夫だ、ママにもちゃんと会える。ここまで来られたんだ、きっと何か分かることがあるはずだ」
梟仙は不安を拭い去るように、自信に満ちた笑みを浮かべる。
「それに、ママは強い。お前もよく知っているだろう?」
その言葉に、凛花の脳裏に、優しくもどこか逞しかったお母様の笑顔がはっきりと浮かんだ。
「……ふふっ。そうですね。お母様ですものね」
凛花は涙を拭い、心からの笑みを浮かべた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
月が空高く昇り、夜風が少し冷たさを増す頃、積もる話を終えた二人は立ち上がった。
最後に強く、そして温かく抱き合い、互いの無事とこれからの希望を確かめ合う。
「おやすみ、凛花」
「おやすみなさい、お父様」
二人は、それぞれの胸に確かな温もりを抱きながら、自室へと静かに帰っていくのだった。




