最大の障壁は、最強で過保護な討伐隊頂点
叡明様の執務室は、先ほどの嵐のような騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
高星様が気を利かせて部屋の隅で静かに控える中、叡明は真剣な眼差しで口を開いた。
「……凛花。梟仙はお前の父親なのだろう?どうして、あんなにも頑なに否定したんだ?」
叡明のまっすぐな問いかけに、凛花はわずかに視線を落とした。
普段の冷静沈着な彼女には珍しく、その横顔には戸惑いの色が浮かんでいる。
「……否定したわけではありません。ただ……」
「ただ?」
「確かに、ずっと探し求めていた親に会えたことは、心から嬉しいんです。でも……もう数年も離れ離れでしたから、突然どう接するべきか分からなくて……」
凛花は困ったように眉を下げた。
「それに、あんな……裏庭で突然叫びながら抱きつかれるような形での再会でしたから。どう対応していいのか、完全に頭が真っ白になってしまったんです」
「まあ……あの男の異様な熱量だからな。無理もない」
叡明は同情するように深く頷いた。
「何より……私の幼い頃の記憶にあるお父様は、あんなに筋骨隆々とした、強い武官の見た目ではなかったのです。もっと細身で、優しくて、いつも穏やかな笑顔の人で……」
「確かに、君の記憶通りなのだろう。彼がこの後宮にやって来たのは、数年前のことだ。その時の彼は……今の姿からは想像もつかないほど、ボロボロだった」
「ボロボロ、ですか……?」
「ああ。服は無惨に破れ、全身にひどい刀傷を負ってな。彼は、自分の住んでいた平穏な里が突如として襲撃されたと語っていた」
「そして何より、自分の家族が理不尽にバラバラにされたこと……あの暗殺組織、黒蓮に対して、凄まじいまでの憎悪と復讐の炎をその瞳に宿していたんだ」
暗殺組織、黒蓮――その忌まわしい名を聞いた瞬間、凛花の肩がピクリと跳ね、呼吸がわずかに浅くなる。
「彼は言っていた。ここなら黒蓮と戦うことができる。そして、国の中枢であるここならば、裏社会のあらゆる情報が集まるはずだと」
「だから、どんな下働きからでもいい、必ず這い上がってみせるから武官にしてくれと、血の滲むような思いで土下座をしてきたんだ」
「お父様が……土下座まで……」
「そこからの彼の執念は、凄まじいものだったよ。死に物狂いで武術を修め、次々と功績を上げ、あっという間に討伐隊の頂点にまで上り詰めた。『武神』とさえ呼ばれるようになったのは、すべて……奪われた家族を取り戻すためだったのだろうな」
叡明の言葉を聞きながら、凛花は黙ってギュッと拳を握りしめた。
顔に泥を塗り、本来の絶世の美貌を隠してまで、女官としてこの後宮に潜り込んだ自分。
それはすべて、生き別れた家族を探すため、そして自分の身を守りながら確かな情報を掴むためだった。
泥まみれの顔の奥にある真実に気づかず、誰もが自分を「ただの器用な女官」として扱う中、父だけは昨日、一目見た瞬間に「愛娘だ」と見抜いて抱きしめてきたのだ。
(お父様も……私と全く同じ想いで、ここに……)
「凛花。今日にでも、二人でしっかり話した方がいいだろう」
叡明は優しく、しかし力強い声で促した。
「長年、討伐隊として情報網を駆使してきた彼なら、君の母親の行方……明霞殿の手がかりを掴んでいるかもしれないぞ」
その言葉に、凛花は弾かれたように顔を上げた。
瞳に、いつもの理知的な光が戻る。
「……そうですね。逃げてばかりはいられません。分かりました」
「決まりだな」
「月光宮での今日の仕事が終わったら、今夜、お父様に会ってみます。……叡明様、申し訳ありませんが、お父様に場所と時間を知らせていただけますか?」
「ああ、任せておけ。高星、頼んだぞ」
声が掛かると、部屋の隅にいた高星が静かに歩み出た。
「承知いたしました。討伐隊の詰め所へ赴き、梟仙様へは私から確実に凛花殿の言葉をお伝えしてまいります。……また執務室でひと騒動起きないよう、細心の注意を払いますので、どうぞご安心ください」
そう言うと、高星は胃のあたりをそっと押さえながら、深く一礼して足早に執務室を後にした。
「それでは、私も月光宮に戻りますね。色々とご配慮いただき、ありがとうございました」
凛花は叡明に向かって深く、そして美しい所作で頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
バタン、と重厚な扉が閉まり、執務室には再び叡明だけが残された。
静寂の中、叡明はゆっくりと椅子に背中を預け、そして……両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「あぁ…………」
誰の耳にも届かない、心底からの呻きが静寂に溶けていく。
凛花の過酷な生い立ちや事情を知り、彼女の力になりたいと強く願う。
しかし、それと同時に、叡明の心の中には、明確に彼女を一人の女性として意識し、惹かれる感情が深く根を下ろし始めていた。
ただの優秀な女官としてではなく、側に置いておきたいとすら思うようになっている。
だが、その感情の前に立ちはだかる壁は、あまりにも巨大で、理不尽で、圧倒的な暴力に満ちていた。
(まさか……自分がこれから乗り越えなければならない最大の壁が、あの梟仙とはな……)
討伐隊頂点にして、幾多の死線を潜り抜けてきた最強の武神。
そして何より、常軌を逸した親バカにして過保護の塊。
もし、自分が大切な愛娘である凛花に手を出そうとしていると知れたら。
もし、少しでも彼女を泣かせるようなことがあれば。
あの男はどうするだろうか。
(間違いなく……執政官という立場だろうが何だろうがお構いなしに、執務室ごと文字通り塵一つ残さず粉砕されるな……)
頭の中に浮かぶのは、満面の笑みで巨大な得物を振り下ろしてくる梟仙の姿だ。
想像するに難くないその凄惨な未来図に、叡明の胃がキリキリと悲鳴を上げ始める。
「はぁ…………」
高星が置いていった胃薬を一包飲むべきか真剣に悩みながら、叡明の絶望的なほどに深いため息が、むなしく執務室の空気に溶けていった。




