猫の居場所と届いた胃薬
叡明の執務室での嵐のような時間を終え、月光宮へと戻った凛花を待っていたのは、心配そうに顔を寄せ合う明苺と桂花の二人だった。
「凛花!大丈夫だった!?あの不審な武官に何かされなかった?」
「本当にびっくりしたんだから。急に抱きついてくるなんて……怪我はない?」
二人の真剣な眼差しに、凛花は少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、小さく苦笑いを浮かべた。
「ええ、大丈夫。……実は、あの人は不審者ではなくて、私の父だったの」
さらりと告げられたその事実に、明苺と桂花は目を皿のようにして見開いたまま固まった。
数秒の沈黙の後、月光宮の庭に驚愕の悲鳴が上がる。
「えええええっ!?あ、あの凄腕そうな武官様が、凛花のお父さん!?」
「うそ、再会できたってこと!?すごい、すごすぎるよ凛花!」
驚きが落ち着くと、二人は自分のことのように手を叩いて喜んでくれた。
「おめでとう、凛花!ずっと探してたんでしょ?よかったねぇ」
「よ、よかった……のかな。あんなに騒がしい人だとは思っていなかったんだけどね」
少しだけ照れくさそうに頬を掻きながら、話を切り替えるように空を見上げた。
「それより、おこげを探さないと。まだどこかに隠れているはず」
三人は再びおこげの捜索を再開した。
月光宮の隅々まで探したが姿が見えず、足を伸ばしてたどり着いたのは、いつもの医務室だった。
扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「おや、君たち。どうしたんだい?」
のんびりとした声を上げたのは、医官の瑞祥だ。
そしてその膝の上には、すっかり警戒心を解いて喉を鳴らしている茶色い毛玉――おこげが鎮座していた。
「あーっ!おこげ、こんなところにいたの!?」
桂花が駆け寄ると、瑞祥は困ったように笑った。
「お腹を空かせているようだったから、少しおやつをあげたら懐いてしまってね。そのまま昼寝を始めてしまったんだよ」
「瑞祥様、すみません。ご迷惑をおかけしました」
凛花が頭を下げると、桂花は少し考え込んだ様子でおこげの頭を撫でた。
「……瑞祥様。月光宮で猫を飼い続けるのは、やっぱり難しいと思うんです。もしよければ、しばらくの間、ここで預かっていただくことはできませんか?」
「おや、私は構わないよ。この子がいれば、少しは部屋も賑やかになるしね」
瑞祥の快諾に、三人は胸を撫で下ろした。
そのまま、瑞祥が淹れてくれたお茶と、明苺が持ってきた茶菓子を囲んで、医務室の片隅で小さな茶会が始まった。
「まさか、こうしてまた三人で一緒にいられるなんて思わなかったよね」
明苺がしみじみと呟いた。もともとは別の場所で働いていた彼女たちが、事件をきっかけに一時的に月光宮へ集められたのだ。
「でも、ずっとは難しいよね。今は騒動の後片付けで人手が足りないから呼ばれているけど、いつかは戻らなきゃいけないし……」
明苺の言葉に、桂花も寂しそうに頷く。
「そうだね。年季のことを考えても、月光宮の仕事が終わったら、またバラバラになっちゃうかも」
凛花は、持っていた茶碗をじっと見つめた。自分は叡明の直属の女官として雇われている立場だ。
友人たちの将来や、ずっと一緒にいたいという願いを、どこかで当たり前のことのように捉えてしまっていたことに気づかされる。
「ねぇ、凛花。叡明様のところで働いてるなら、何か紹介できるところとかないかな?」
明苺の問いに、凛花は少し考え込んだ。
「すぐには……難しいかもしれない。でも、後宮内は常に人手不足だから、特に月光宮のような上級妃の宮であれば、正式な侍女として定着できる可能性はあるかもしれない」
「えっ!私たちでもなれるかな?」
「芙蓉様にお願いしてみるよ。二人の働きぶりなら、きっと喜んでくださるはずだから」
凛花の言葉に、明苺と桂花の瞳が希望で輝いた。
そんな彼女たちの姿を見て、凛花の胸の中にも温かな感情が満ちていく。
「おやっと、そうだ。胃薬の話はどうなったんだい?」
瑞祥の言葉に、凛花は「あっ」と声を上げた。
「いけない。高星様に渡すはずの新しい薬、まだ預かったままでした。……二人とも、私は高星様のところへ行ってくる。ゆっくり休んでから戻って」
「いってらっしゃーい、凛花!」
二人の声に送られ、凛花は医務室を後にした。
叡明の執務室へと続く廊下を歩きながら、凛花はふと自分の心の変化に驚いていた。
以前の自分なら、こんな風に誰かのために動き、日常を守りたいと願うことはなかっただろう。
美味しいものを食べ、友人たちと笑い合い、誰かの役に立つ。
……口の中に残る甘い茶菓子の余韻を噛み締めながら、凛花は自分の内に芽生えた『この温かな場所を失いたくない』という執着に、少しだけ戸惑い、そして小さく微笑んだ。
執務室に到着すると、そこには眉間に深く皺を寄せた高星様が立っていた。
「高星様、瑞祥様からお預かりしていた胃薬……いえ、私が新しく調合し直した薬をお持ちしました」
「おや?これは助かります、凛花殿」
凛花は、これまでの薬がなぜ効かなかったのか、そして今回自分がどのような生薬を組み合わせて「即効性」と「胃壁の保護」を両立させたかを丁寧に説明した。
「なるほど……。今まで飲んでいた薬は、調合が間違えていたと…」
高星は疲れた顔で天を仰いだ。
「改めてありがとうございます、凛花殿。あなたが作ってくれたのなら安心ですね」
「ふふ、お役に立てたなら光栄です。では、私はこれで失礼しますね」
凛花が会釈をして部屋を出ようとした、その時。
奥の机で書類に目を落としていた叡明が、低く、重みのある声で彼女を引き止めた。
「待て、凛花。……梟仙について、少し話がある」
その声の響きに、凛花は背筋がわずかに伸びるのを感じた。
それは仕事の指示ではなく、一人の男としての、どこか踏み込んだ温度を持った呼びかけだった。




