新たな任務は月光宮で――薬師の褒美は宝の山
「おはようございます、凛花殿。朝早くからご苦労様です」
「あ、高星様。おはようございます。朝食の準備、ちょうど整ったところです。今朝は胃に優しい粟の粥と、旬の野菜を使った和え物にしてみました」
まだ薄暗い早朝。厨房に漂う出汁の温かい香りに包まれながら、私は振り返って挨拶を返した。
「ありがとうございます。では、私が叡明様を起こしてまいりましょう」
高星様は静かに一礼すると、主の寝室へと向かっていった。
ほどなくして、高星様に促されるようにして叡明様が姿を現した。寝起きの彼は、いつもピシッとしている執政官としての顔とは打って変わり、ひどく無防備だった。
少し乱れた髪、気怠げでとろんとした瞳、そして無造作にはだけた襟元から覗く白い鎖骨。
(……確かに、これは他の侍女さんを絶対に付けられないわよね)
以前、高星様が「寝起きの叡明様は色気が溢れすぎていて、普通の侍女ではとても仕事にならない」とこぼしていたのを思い出し、私は内心で深く深く頷いた。
「……うむ、美味いな。朝の身体に染み渡るようだ」
席に着き、粥を一口運んだ叡明様がぽつりとこぼす。
すっかり私の作った食事が胃袋に馴染んでいるようで、料理を作る身としては嬉しい限りだ。
食後の茶を啜り、少し頭がすっきりした様子の叡明様が、ふと真剣な声色で口を開いた。
「凛花、お前に一つ頼みたいことがある」
「頼みごと、ですか?」
「あぁ。月光宮にいる芙蓉妃の毒味役が、どうやら体調を崩してしまったらしくてな。代わりが見つかるまで、しばらくの間、お前が芙蓉妃の毒味役として付いてくれないか?」
その後宮の妃の名前に、私はピクリと反応した。
「毒味役が体調を崩した……?それは、食事に毒が盛られていたということですか?」
私は思わず身を乗り出した。もしそうなら、月光宮は今まさに危険な状態にある。
しかし、叡明様は静かに首を横に振った。
「いや、そうではない。単純に流行り病か、過労で体調を崩しただけだ。だからその点の心配はいらない」
「なるほど、そういうことでしたら安心しました。今日から入ればよろしいですか?」
「あぁ、頼めるか?」
「はい。準備ができ次第、すぐに向かいますね」
私が二つ返事で了承すると、叡明様は満足そうに頷き、少しだけ口角を上げた。
「ここ最近、お前には色々と助けられている。厄介な問題も立て続けに解決に導いてくれたしな。今回の芙蓉妃の件もある、お前には何か褒美をやろう。望むものがあるなら言ってみろ」
「えっ!」
褒美。
その甘美な響きを聞いた瞬間、私の頭の中には後宮の医務室に眠る、見たこともないような珍しい薬草の数々が弾けたように浮かび上がった。
いけない、落ち着け私。
変にがっついては怪しまれる。
私は必死に表情を引き締め、冷静で控えめな女官を装って思考を巡らせた。
……が、口元が勝手ににやけてしまうのを抑えきれなかった。
隠しきれないワクワクが顔面に張り付いてしまう。
「……でしたら!薬の材料が欲しいので、医務室で材料をもらう許可をいただきたいです!」
期待を隠しきれない上ずった声で答えると、叡明様は私の顔を見て、堪えきれないといった様子で「ふっ」と吹き出した。
「お前らしいな。宝石や着物ではなく薬草とは。よかろう、高星、彼女を医務室まで案内してやれ」
「承知いたしました。凛花殿、準備ができましたらお声がけください。先にご案内いたします」
「ありがとうございます!すぐ準備してきます!」
私は深々と頭を下げると、足取りも軽く自室へと戻った。
自室に戻った私は、必要な荷物を手早くまとめた。
その際、以前作っておいた『花の雫』という特製の肌を潤す秘薬をそっと小袋に忍ばせた。
お肌の調子を整える効果があり、美しさに磨きをかける芙蓉妃へのちょっとした贈り物として絶対に喜ばれるだろうと思ったのだ。
身支度を整え、私は高星様に声をかけていざ医務室へと向かった。
「高星様は、よく医務室に行かれるんですか?」
長い回廊を歩きながら、私は前を歩く高星様に尋ねた。
「ええ。少し胃が痛むことが多くてですね……定期的に医務室で胃薬をもらっているのです」
どこか心底疲れたような声色に、私は首を傾げた。
「そうなんですね。でも、ずっと飲んでいるのに……あまりよくなっていないみたいですね?」
私の素朴な疑問に、高星様はピタリと足を止め、深々と頭を抱えた。
「……一体、誰のせいだと思っているのですか……。最近の騒動の数々、私の胃がどれだけ縮み上がったことか……」
「え?何か言いましたか?」
「いえ、独り言です……さぁ、急ぎましょう」
どこか恨めしそうな視線を向けられた気がしたが、気のせいだろうか。
医務室に到着すると、そこには独特な薬草の香りが充満していた。
私にとっては心が躍るような、たまらなく良い匂いだ。
部屋の奥で薬箱の整理をしていた一人の男性が、私たちの気配に気づいて振り返った。
年の頃は二十代半ばくらいだろうか、人の良さそうな柔らかい雰囲気を持つ青年だ。
「あ、高星様。いらっしゃい」
彼はこちらに向かって歩き出そうとした——その瞬間。
「わっ!」
何もない平坦な床で派手につまずき、ドサリと勢いよく転んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
私は慌てて駆け寄り、彼の手を引いて立ち上がるのを手助けした。
「ありがとう。ははは、いつものことだから気にしないで」
彼は服についた埃を払いながら、全く気にする様子もなく朗らかに笑った。
この人が、この医務室を任されている瑞祥という医官らしい。
「高星様、いつもの胃薬ですか? すぐに用意しますね」
瑞祥が薬棚に手を伸ばそうとするのを、高星様が手で制した。
「いえ、私の薬は後で構いません。今日は叡明様の許可を得て、こちらの凛花殿に薬の材料を少し持たせていただきたいのです」
高星様の紹介を受け、瑞祥は目を丸くして私を見た。
「あぁ!あなたが、あの噂の人ですね。はじめまして、私は瑞祥です」
「はじめまして、凛花です。よろしくお願いします」
お辞儀を交わすと、瑞祥はにこやかに笑って部屋の奥の棚を指さした。
「材料なら、そこにあるもの、好きに持っていって大丈夫だよ。叡明様の許可が出ているみたいだから」
「本当ですか!?」
私の目は一瞬で輝き、視線は宝の山のような薬草棚に釘付けになった。
白檀、桂皮、甘草、それに見たこともないような高価な生薬がずらりと並んでいる。
「わぁ……! これ、すごく質のいい……あ、こっちの根もすごい……!」
吸い寄せられるように棚に近づき、夢中で手を伸ばそうとしたその時——ガシッ、と後ろから私の襟首が力強く掴まれた。
「凛花殿。お気持ちは痛いほど分かりますが、今は芙蓉妃様の元へ向かうのが最優先です。材料集めは、また後日時間ができた時にしてください」
高星様の冷静な、しかし有無を言わさぬ声が降ってきた。
「そ、そんなぁ……せめてこの一つだけでも……!」
「ダメです。さぁ、行きますよ」
私は後ろ髪を引かれる思いで、涙目で薬草棚を見つめ続けた。しかし高星様の力には抗えず、ズルズルと廊下へ引きずり出されてしまう。
「それでは瑞祥殿、また後ほど」
「ははは、いってらっしゃい。またいつでもおいで」
瑞祥の呑気な見送りを受けながら、私は惜しい気持ちでいっぱいの顔のまま医務室を後にし、新たな任務先である月光宮へと向かうのだった。




