交差する過去と現在
翌朝。
宿の窓から差し込む白々とした光で目を覚ました二人は、身支度を整えて外に出た。
朝の空気はまだひんやりと冷たく、肌を刺すようだったが、後宮の膝元であるこの街はすでに商人たちが行き交い、活気づき始めていた。
宿から後宮の方向へと続く大通りを、二人並んでゆっくりと歩く。
いつもなら弾むような秋英のおしゃべりが絶えないはずだが、今日ばかりは少し控えめで、石畳を叩く二人の足音だけがやけに大きく聞こえた。
しばらく歩き、通りの向こうに後宮の巨大な正門がはっきりと見え始めた交差点で、秋英がふと足を止めた。
「……私たちの旅は、ここまでだね」
秋英がいつもの明るい笑顔で振り返る。
しかし、その瞳の奥にはほんの少しだけ名残惜しさが揺れているように見えた。
凛花もその場に立ち止まり、深く息を吸い込んでからてから大きく頷いた。
「うん。ここまで一緒に来てくれて……本当にありがとう、秋英。秋英がいなかったら、私、途中で心が折れていたかもしれない」
二人は引き寄せられるように互いに手を伸ばし、強く抱きしめ合った。
少しひんやりとした秋英の着物の感触と、ふわりと香る甘い花の匂いを、凛花は記憶に焼き付けるように目を閉じた。
「またね、凛花」
「うん、またね」
体を離し、凛花は満面の笑みを浮かべる秋英を真っ直ぐに見つめ返してから、意を決して背を向け、後宮への道を歩き出した。
「また会おうねー!!」
背後から聞こえる、秋英の叫ぶような明るい声。
凛花は振り返らずに、ただ右手を高く上げて大きく振り返した。
秋英のその弾むような声は、一人で巨大な門へと向かう凛花の小さな背中を、いつまでも温かく力強く押し続けてくれていた。
――あの日、たった一人で後宮の門へと向かって歩いていた時の、心細さと、それでも前を向こうとした決意。
そして、秋英と交わした「また会える」という確かな約束。
「……どうしたのかな? こんな夜遅くに」
不意に頭上から降ってきた、よく知る低い声に、凛花はびくりと肩を震わせてハッと我に返った。
夜の静けさに包まれた後宮の一角。
冷たい夜風が頬を撫でる中、目の前には、眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔をしてこちらを見下ろす叡明様が立っていた。
月の光に照らされたその端正な顔を見て、凛花は自分が「過去の記憶」から「現在」に戻ってきたことを完全に自覚する。
「あ……いえ。ふと、昔のことを思い出していただけです」
凛花が静かに微笑んで誤魔化そうとすると、叡明様は「昔か……」と顎に手を当てて小さく呟いた。
「そういえば、お前は異常なまでに馬鈴薯剥きに執着していたな。誰かに言われたからやっているというレベルではなかった。あれも、昔に何かあったからなのか?」
思わぬ角度からの鋭い質問に、凛花は少しだけ目を伏せ、手元でギュッと拳を握った。
「……幼い頃、母と一緒に馬鈴薯をよく剥いていたんです。芽の毒を、丁寧に取り除くために」
夜の静寂に溶けるような、穏やかだがどこか切ない声で、凛花はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「私が住んでいた里が、突然何者かに襲撃された日……父から『馬鈴薯を剥いて待っていて』と言われました。それが、あの日聞いた父の最後の言葉になってしまって」
凛花は自分の両手を見つめる。
「だから、こうして同じ作業をしていると、不思議と心が落ち着くんです。あの日の続きをしているような気がして……いつかまた、二人に会える。そんな気がするから、ずっとやっているんです」
凛花の静かな告白に、叡明は少々沈黙した。
いつもは鋭い彼の瞳が、今はただ不器用な優しさを帯びている。
「……そうか。すまない、ひどく立ち入ったことを聞いたな」
気まずそうに目を逸らして謝罪する叡明に、「いえ、大丈夫ですよ」と凛花は首を振った。
「……なら、あの蓮夜という兄も、お前とまた同じような過去があったのか?」
叡明は気を取り直したように話題を変えた。
凛花は一瞬言葉に詰まったが、後宮に潜入している任務に関わる深い事情は伏せつつ、蓮夜との出会いや、彼に料理を作ってもらっていた日々についてごく簡単に説明した。
話を聞き終えた叡明は、大きなため息をつきながら頭を抱えた。
「つまり、あいつはお前の美味い手料理で、完全に胃袋を掴まれたということなのか……?」
ぶつぶつと深刻そうに呟いていた叡明だったが、不意に何かとんでもないことを閃いたように、勢いよく顔を上げた。
その顔は、先ほどの同情的な表情から一転して、ひどく焦ったような、あるいは怒っているような複雑な形相に変わっている。
「待て! まさか、お前たち本当の兄妹ではないのだから……その、なんだ。一つ屋根の下で、何かあったんじゃないのか!?」
急に距離を詰めて迫ってきた叡明に、凛花は「ひっ」と短い悲鳴を上げて、少し引き気味に体をのけぞらせた。
「……何かあった、とは?」
「あ、あぁ! その、好意的な何かというか……つまり、男女の触れ合いというか、だな……!」
顔を真っ赤にして凄まじい形相で詰め寄ってくる叡明を見て、凛花の背筋がぞわぞわと粟立った。
「な、何もありませんよ! 叡明様が思っているような関係じゃありませんから!」
凛花は両手で叡明の厚い胸板を力強く押し戻し、きっぱりと言い放った。
「そ、そうか……ならいい」
凛花の全力の否定を聞いて、叡明は憑き物が落ちたように正気に戻り、心底ホッと安堵の息を吐いた。
「ふぅ……もう夜も遅い。冷える前に、早く寝るんだぞ」
どこか満足げな、少しだけ足取りの軽い様子でそう言い残すと、叡明はくるりと背を向け、自分の部屋へと帰っていった。
「……何だったのかしら、一体」
嵐のように去っていった叡明の大きな後ろ姿を見送りながら、凛花は呆れたように小さく息をつき、そしてくすりとと笑った。
明日からもまた、この後宮で色々なことが待ち受けているだろう。
そしてついに、両親の手がかりに近づけるかもしれない。
ふと、私の脳裏に、旅の道中で名もなき白い花を見つめていた秋英の横顔が蘇った。
『故郷にね、この花みたいに控えめで優しい幼馴染がいるんだ。私が突然いなくなって、今頃きっと泣いてるだろうな……』
凛花は夜空を見上げ、あの日の秋英との「また会える」という約束と、今ここにある日常を胸の奥でそっと温め直すと、自分の部屋へと歩き出した。




