陽炎花の解毒と、新たな居場所
凛花が薬屋へと駆け出していった後、集会所に残った秋英は、ふと部屋の隅にあった木箱に目をやった。
「あれ……?」
先ほどまでそこにあったはずの、あの恐ろしくも美しい青い花――陽炎花が消えていたのだ。
嫌な予感がして周囲を見回すと、外から微かに子供の甲高い声が聞こえた。
慌てて外へ飛び出すと、一人の少年が手に陽炎花を握りしめ、村の共同井戸の方向へと走っていく後ろ姿が見えた。
(あの子、さっき凛花が毒の話をしているのを聞いていた子だ!)
おそらく、水で洗えば花の毒が落ちる、あるいは清められるとでも思ったのだろう。
そのまま井戸や水源に花を投げ込まれでもしたら、村中が毒水で全滅してしまう。
「待って! それを水に入れちゃだめっ!」
秋英は着物の裾を握りしめ、全力で駆け出した。
井戸の縁に手をかけ、花を放り投げようとした少年の腕を、間一髪で背後から力強く掴んで止める。
「だ、だめだよ! そのお花は絶対にお水に入れちゃいけないの!」
秋英のただならぬ剣幕に、少年は目を白黒させて固まった。
騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちに向かい、秋英は声を張り上げる。
「みんなも、この花には絶対に触らないで! これが流行り病の原因の毒なの!」
その必死な呼びかけに、村人たちは青ざめて後ずさりをした。
一方その頃、凛花は無人の薬屋に飛び込んでいた。
棚にずらりと並んだ薬草の瓶、すり鉢、見慣れた天秤。
むせ返るような独特の薬草の香りが鼻をくすぐり、凛花の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
(お母様……)
幼い頃、母の隣で薬作りを手伝っていた日々の記憶が、鮮明に蘇る。
懐かしさに浸ってしまいそうになる心を、凛花は両手で頬を軽く叩いて奮い立たせた。
(今はそれどころじゃない。早く、みんなを助ける薬を作らなきゃ!)
凛花は迷いのない手つきで必要な薬草を棚から選び出し、素早く、かつ丁寧に調合を始めた。
すり鉢で薬草を擂り潰すリズミカルな音が店内に響く。
かつて母から教わった知識が、今こうして誰かの命を救うために使われている。
その事実に、凛花は薬師としての静かな喜びと誇りを感じていた。
「秋英! お待たせ、薬ができたよ!」
集会所に戻ってきた凛花の手には、煎じ立ての薬が入った大きな壺があった。
「凛花、おかえり! 早かったね!」
二人は看病している村人たちと手分けをして、意識の混濁している患者たちの口に少しずつ、慎重に薬を含ませていった。先ほど花を持って走っていた少年にも、予防のために薬を飲ませる。
それから数時間後。
重苦しい熱気に包まれていた集会所の空気が、嘘のように穏やかになっていた。
患者たちの荒かった呼吸は静かで規則正しい寝息に変わり、赤く腫れ上がっていた指先の炎症も少しずつ引き始めている。薬が劇的に効いたのだ。
「よかった……! 熱が下がったみたい」
「すごいよ凛花! 本当にすごい!」
凛花と秋英は、ホッと肩の力を抜いて顔を見合わせ、手を取り合って喜んだ。
「……う、ん……」
ふと、部屋の奥から微かな声がした。
見ると、倒れていた村の薬師が目を覚まし、ゆっくりと身を起こそうとしているところだった。
凛花たちが慌てて駆け寄り、これまでの経緯と、陽炎花という毒草が原因であったことを説明する。
「そうだったの……。私もあの花を初めて見て、調べている途中で急に意識が遠のいてしまって……」
薬師は深くため息をついた後、二人に深々と頭を下げた。
「あの、本当にすみません! 先生の薬屋の薬草や道具を、緊急だったとはいえ勝手に使ってしまって……」
凛花が申し訳なさそうに謝罪すると、薬師は優しく首を横に振った。
「何を言うの。気にしないでちょうだい。むしろ、私や村のみんなの命を救ってくれて……本当にありがとう」
その言葉に、凛花は胸が温かくなるのを感じた。
やがて、最初に花を山から持ち帰った子供も目を覚まし、涙ぐみながら薬師に頭を下げた。
凛花たちが「山のどのあたりで見つけたの?」と優しく問い詰めると、子供はぽつりぽつりと場所を教えてくれた。
大体の見当がついたため、明日、村の大人たち数人を連れて現地を調査することに決まった。
「さて……患者さんたちの峠も越えたし、私たちはひとまず宿を取ろうか」
凛花が秋英に声をかけ、集会所の外へ出ようとしたその時だった。
「待ってちょうだい、あなたたち」
呼び止めたのは、布団に座ったままの薬師だった。
「私はまだ本調子じゃないから……しばらくの間、薬屋の代理をやってくれないかしら?」
「えっ……私たちが、ですか?」
凛花が目を丸くすると、薬師はふわりと微笑んだ。
「ええ。あなたほどの腕を持つ薬師なら安心して任せられるわ。その間、薬屋の奥の部屋に泊まっていいし、もちろん働いてくれた分の賃金も支払うわ」
その提案に、二人は顔を見合わせて「いいんですか!?」と声を弾ませた。
路銀を稼ぎつつ宿代も浮くなど、願ってもない申し出だ。
「はい! 私でよければ、お任せください!」
凛花が元気よく頭を下げると、薬師は改めて居住まいを正した。
「ありがとう。私の名前は、紫苑よ。よろしくね」
名乗ったその女性は、少し青白い顔をしてはいたが、切れ長の瞳と艶やかな黒髪を持つ、村の中でもひときわ目を引く美しい人だった。
すっかり日が落ちた頃。
馬車から降ろしていた荷物を抱え、二人は提灯の明かりを頼りに薬屋へと向かって歩いていた。
「お金をかけずに泊まれて、おまけにお金も稼げるなんて、一挙両得だね!」
秋英がいつもの太陽のような笑顔を浮かべて弾むように歩く。
「うん、本当に助かったね。それに……また薬屋さんができるなんて、すごく嬉しい」
凛花の横顔にも、隠しきれない喜びの笑みが浮かんでいた。
明日から始まる「薬屋の店番」という思いがけない日々に、二人の心は期待で大きく躍っていたのだった。




