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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
過去編:旅立ち

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極上の青魚と、特製の薬味

 厨房に足を踏み入れた私は、すうっと深く息を吸い込んだ。

 香辛料や出汁の香りに紛れて、かすかに鼻を突くものがある。


「……油の匂い。それに、生魚特有の血の匂いね」


 私はしゃがみ込んでいる料理長を振り返った。


「最後にそのお魚を見たのはいつ? 厨房から誰もいなくなった時間はどれくらい?」

「え? あ、ああ。昼飯の仕込みが終わるまでは間違いなくあったんだ。その後、皆で少しだけ裏口で休憩を取った。ほんのわずかな時間だよ」


 私は顎に手を当て、頭の中で状況を組み立てた。


「なるほどね。丸ごとの大きな生魚をそのまま抱えて逃げれば、血も滴るし当然目立つわ。それに今の季節、そのままではすぐに鮮度が落ちて価値が下がってしまう」

「じゃあ、どうやって盗んだの?」


 秋英シュウエイが首を傾げる。


 私は厨房の隅に残された、わずかな油の飛沫しぶきを指差した。


「厨房の隅にあった空の壺と油瓶を勝手に使い、はらわたを素早く抜いて即席の油漬けにしたはずよ。そうすれば鯖特有の足の早さも抑えられるし、ただの荷物に紛れさせて運びやすい。犯人は手際よくそれをこなし、高値で売り捌くために、おそらく――」

「船がたくさん集まる、港ね!」


 秋英がポンと手を打った。私たちは顔を見合わせ、すぐさま宿を飛び出した。


 潮風が吹き抜ける港は、荷下ろしや積み込みを行う商人たちでごった返していた。

 

 少し離れた桟橋で、出港準備を進める大きな商船に次々と荷物が運び込まれている。


 その列の中に、周囲をキョロキョロと警戒しながら、不自然に大事そうに丸い壺を抱える男を見つけた。


「あいつだわ」


 私が駆け出そうとしたその時、隣にいた秋英が、すっと冷たい目をした。


 彼女は港の元締めらしき男――あるいは、密かに同行している彼女の護衛に向かって、小さく顎で合図を送った。

 

 すると次の瞬間、あっという間に荒くれ者の屈強な男たちが数人飛び出し、犯人の男の退路を完全に塞いでしまったのだ。


(……え?)


 鮮やかすぎる手際に、私は目を丸くした。

 この子、ただの食いしん坊な旅人じゃない。


 一体どれだけの力を持っているの……?


「ひっ!? な、なんだお前ら!」


 追い詰められた犯人は逆上し、抱えていた壺を海に向かって高く掲げた。


「近寄るな! これ以上近づいたら、この壺を海に投げ捨てるぞ!」


 夕食の危機に、私は即座に前へ進み出た。

 

 そして、黒蓮で培った最も冷酷な「暗殺者の声」を作って言い放った。


「……やめた方がいいわよ。その壺の風通しの悪さと、今の気温。血抜きが不十分な鯖の脂が腐れを生じて、中でとんでもない腐敗が起きているわ。あと数分で、致死性の毒煙が発生する」

「は……? ど、毒煙……!?」

「ええ。ひとたび吸い込めば、肺が内側から焼け焦げて血を吐いて死ぬわ。苦しみたくないなら、さっさと手を離した方がいい」


 もちろん、毒の知識を応用したただのハッタリだ。

 

 だが、私の射抜くような視線と絶対的な自信に満ちた声に、男の顔からサッと血の気が引いた。


「ひぃぃっ!?」


 恐慌きょうこうをきたした男は、悲鳴を上げて壺を放り出した。

 

 私はしなやかに地を蹴り、空中で弧を描く壺を、中身を一切揺らさずにふわりと完璧に受け止めた。


凛花リンカ、すっごーい!!」


 すぐさま男は荒くれ者たちに取り押さえられ、私には秋英が無邪気な笑顔で抱きついてきた。

 

 先ほどの底知れなさはすっかり消え、夕飯を取り戻した子供のように喜んでいる。


 無事に宿へ壺を持ち帰り、料理長に返却してから数時間後。

 

 すっかり日の落ちた食堂で、私たちの目の前には湯気を立てる極上の夕食が並べられていた。

 

 短時間とはいえ油で密閉されていたことで旨味が凝縮された青魚は、とろけるような柔らかさの煮込み料理になっていた。


 透き通るような美しいスープもついている。


「美味しいーっ! ほっぺたが落ちそう!」


 秋英が目を輝かせて舌鼓を打つ。

 私も一口食べ、その濃厚な脂の甘みと深い味わいに思わず頬を緩ませた。

 長旅の疲労が、身体の隅々から溶けていくようだ。


「……そうだわ、秋英」


 私は懐から、道中の市場で手に入れて自分で調合しておいた、小さな薬味の包みを取り出した。

 

 酸味のある果実から抽出した身体の熱を散らす薬効や、消耗した肉体の疲れを癒やす秘薬、そして滋養を高める海や山の恵みを独自に練り合わせた、消化と疲労回復を高め風味を増すための特製の粉末だ。


「これを、少しだけかけて食べてみて」

 

 秋英は不思議そうにしながらも、言われた通りに薬味を振りかけ、再び魚を口に運んだ。

 

 瞬間、彼女の目がこれ以上ないほどにまん丸に見開かれた。


「な、何これ!? さっきよりずっと美味しい!! 味が全然違う!」


 秋英は勢いよく魚とご飯をかき込み始めた。

 

 その見事な食べっぷりを見ているだけで、不思議と私まで胸がいっぱいになる。


 温かい食事と、美味しいと言ってくれる隣の笑顔。


「ふふっ……」


 私は楽しそうに彼女を見つめながら、美味しいスープをゆっくりと飲み干した。


 お腹も心も満たされていく。

 

 今夜はきっと、温かくていい夢が見られそうだ。

 心の中でそう呟きながら、私は静かに微笑んだ。

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