消えた青魚と、夕食を懸けた追跡
ガタガタと規則的な車輪の音を立てて、秋英の用意した馬車は街道を滑るように進んでいく。
黒蓮の屋敷という、日の当たらない閉ざされた鳥籠の中でしか生きてこなかった私にとって、馬車の小窓から流れていく外の世界の景色は、何もかもが新鮮で眩しかった。
道中、私たちはいくつもの小さな村や町を通り過ぎた。
村に立ち寄るたびに、秋英は「これ美味しそう!」「凛花、あっちの屋台も見てみようよ!」と私の手を引き、見たこともないような珍しい屋台の食べ物を次々と買い求めた。
熱々の肉汁が溢れる饅頭、甘い蜜を絡めた木の実の串焼き、香辛料がピリッと効いた鶏肉の包み焼き。
それらを二人で半分こにして頬張りながら、馬車の中ではいつまでも他愛のない会話をして笑い合った。
「ねえ、凛花。前から思ってたんだけどさ」
ある日、口元に蜜をつけたままの秋英が、ふと真面目な顔をして言った。
「わたしたち、もうこんなに一緒に旅してるんだから、そろそろ『さん』付けとか敬語とか、やめにしない?」
「え……。でも、秋英さんは馬車まで乗せてくださった恩人ですし……」
「だーめ! そういうの堅苦しくて嫌いなの! わたしのことは秋英って呼んで。わたしも凛花って呼ぶから。ね?」
有無を言わさない満面の笑顔で押し切られ、私は戸惑いながらも「……わかったわ、秋英」と小さく頷いた。
最初の頃こそ、いつ袖口から暗器を取り出されるかと全身を強張らせていた。
……けれど、無防備に口の周りを蜜だらけにして笑うこの底抜けに明るい少女の前では、どんな警戒心も長続きしなかった。
それどころか、お互いを呼び捨てにして笑い合うこの穏やかな時間は、血生臭い日々の記憶を少しずつ薄れさせ、今の私にとって一番心が落ち着く、かけがえのないものになっていた。
そんな賑やかな旅が続き、私たちがとある大きな宿場村に到着した日のことだった。
その村は今まで通り過ぎてきたどの村よりも活気に溢れており、近くに大きな港があるのか、行き交う人々の熱気に混じって、潮の香りが微かに風に乗って漂ってきている。
「はぁ〜、着いた着いた! 今日はずっと馬車に揺られっぱなしだったから、肩が凝っちゃったよ。凛花、今日は一番良い宿をとって、美味しいご飯を食べてゆっくり休もう!」
秋英の提案に、私も大きく頷いた。馬車の旅は楽しいが、やはり疲労は少しずつ溜まっていく。
温かいお湯で身体を拭き、柔らかい寝台で眠りたかった。
村の中心部にある立派な宿を見つけ、私たちはさっそく宿泊の手続きを済ませた。
部屋へ向かうため、吹き抜けになっている一階の回廊を歩き、長旅の汚れを落として一息つこうとしていた、まさにその時のことだった。
「あああっ!? 嘘だろう、どこにいった!?」
ただ事ではない、悲痛な叫び声が宿の奥から響き渡った。
「な、なに!?」
反射的に身構えた私だったが、声のした方向が厨房であることに気づき、秋英と顔を見合わせて慌てて駆けつけた。
香辛料や出汁の良い匂いが充満する広い厨房では、恰幅の良い料理長らしき男が、頭を抱えてその場にしゃがみ込んでいた。周囲の若い料理人たちも青ざめた顔でオロオロとしている。
「どうしたの? 泥棒?」
秋英が厨房の入り口からひょっこりと顔を出して尋ねると、料理長は半泣きの顔を上げて叫んだ。
「今夜の夕食に出すはずだった、一番大事な材料がなくなっちまったんだよ!」
「材料……?」
「旅の疲れを癒やす、夜の贅沢な一食。その目玉料理になるはずだった貴重な青魚なんだ! ただの魚じゃない。あいつは上質な脂がたっぷりと乗っていて、滋養強壮に効く良質な油がこれでもかと含まれている幻の魚なんだ! 食べれば肌は真珠のように滑らかに美しく保たれ、身体の底から活力が湧いてくる!」
料理長は握り拳を作り、熱弁を振るい始めた。
「あの後宮の妃たちですら、美容と健康のために喉から手が出るほど欲しがるような、特別な食材なんだよ! だからこそ信じられないような高値で取引される。……くそっ、きっとその価値を知っている泥棒に、目を離した隙に狙われたんだ!」
その説明を聞いた瞬間、隣にいた秋英の顔つきがスッと変わった。
「後宮の妃様も欲しがる、美容にいいお魚……。上質な脂……(ごくり)」
ブツブツと呟いた後、秋英は私の腕をガシッと両手で掴み、懇願するような涙目で凄まじい圧力をかけてきた。
「凛花!! どうにかできないかな!? このままじゃ今夜の最高のご飯がなくなっちゃうよ! わたし、絶対にそのお魚食べたい!」
「ええっ、私に言われても……」
いきなりの無茶振りに困惑しつつも、実のところ、私自身の胃袋も「その貴重な青魚とやらを絶対に食べたい」と激しく主張し始めていた。
過酷な環境で育った私にとって、美味しいものを食べることは何よりの幸せだ。
しかも、疲労困憊の身体に染み渡る上質な脂と、美容にも良いという嬉しいおまけ。
……それを泥棒に奪われたまま、今夜の夕食が質素なものに格下げされるなど、断じて許せることではない。
「……わかったわ。今夜の『極上の夕食』のためだものね」
私は気合を入れるように腕まくりをした。
叩き込まれた、黒蓮の観察眼と追跡技術。
それが今、かつてないほど平和で、かつ切実な「夕食の奪還」という目的のために火を噴こうとしていた。
私は鋭い視線を厨房の隅々へと走らせ、消えた青魚が残したであろう僅かな痕跡を探し始めたのだった。




