初めての村、甘い香りの旅人
死体の転がる冷たい林を抜け、獣道のような細い山道を下っていくと、やがて土が硬く踏み固められた街道へと出た。
頭上には、遮るもののない青空が広がっている。黒蓮の薄暗い屋敷の中庭から見上げていた、四角く切り取られた空ではない。
どこまでも続く、本当の広い空だ。
太陽の眩しさに目を細めながら、私は街道に沿ってひたすらに歩き続けた。
自由を手に入れた安堵よりも、今は死線を越えたことによる極度の疲労と、小鈴ちゃんと別れた途方もない孤独感が、全身に重くのしかかっている。
数時間ほど歩いただろうか。
やがて、人の話し声や荷車の車輪が軋む音、そして食べ物が焼ける香ばしい匂いが風に乗って漂ってきた。
街道沿いに開けた、小さな宿場町だった。
旅人や商人、地元の人々が忙しなく行き交い、活気に満ち溢れている。
すれ違う人々は皆、当たり前のように笑い、話し、生きている。誰も他人の命を狙っていないし、誰かに命を狙われる恐怖に怯えてもいない。
私にとっては、あまりにも眩しすぎる別世界だった。
空腹と疲労で限界に達していた私は、吸い込まれるように一軒の賑やかな食堂へと足を踏み入れた。
壁に掛けられた木札には、様々な料理の名前が書かれているらしい。
香辛料の効いた肉や、こんがりと焼かれた魚。
どれも美味しそうだったが、張り詰めた糸から解放されたばかりの私の胃は、重いものを受け付けそうになかった。
「あの……お粥を、お願いします」
空いている席に座り、卓を拭きに来たおかみにそう告げる。
しばらくして運ばれてきたのは、湯気を立てる素朴な白粥だった。
匙ですくい、そっと口に運ぶ。
「……っ」
温かい。
じんわりとした熱と米の甘みが、冷え切っていた身体の奥底へと染み渡っていく。
美味しい、と感じた。
そして同時に、胸の奥がキュッと締め付けられるような、強い郷愁に駆られた。
(懐かしい……)
黒蓮に連れ去られる前――まだあの平和だった里で、私がお母様の代わりに薬草集めを一生懸命やっていた頃。
無理をして熱を出して寝込むと、お母様はいつも仕事を置いて付きっきりで看病してくれて、生薬をほんの少し混ぜた、身体に優しい味のお粥を丁寧に作ってくれた。
あの時の温もりが呼び覚まされ、ふっと胸の奥が熱くなった。
目の前のお粥も十分に美味しかったけれど、やっぱり違う。
(お母様のお粥が、やっぱり食べたいな……)
私は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、最後の一滴までお粥を飲み込んだ。
袖口でそっと目元を拭い、空になった器を置いて立ち上がった。
「お粗末様! お代は銅銭三枚だよ」
食べ終えて席を立ち、おかみに声をかけられた時、私はハッと立ち尽くした。
銅銭三枚。
……それが、どれほどの価値なのかが全く分からないのだ。
黒蓮の屋敷では、衣食住のすべてが与えられていた。
暗殺任務の報酬はすべて一族の資金となり、私が個人的に金銭に触れる機会など皆無だったのだ。
懐にあるのは、脱出の際に屋敷の金庫から手当たり次第にくすねてきた、いくつかの硬貨だけ。
私はおずおずと、その中から銀貨を一枚取り出して差し出した。
「えっ……お嬢ちゃん、からかってるのかい?」
おかみは銀貨を見て目を丸くし、やがて呆れたような顔になった。
「こんな銀貨一枚、うちみたいな小さな店じゃあお釣りが出せないよ。もっと細かいのないのかい?」
「細かいの、ですか……? あの、これでは足りないのでしょうか……?」
私が本気で戸惑っていると、周囲の客たちが「なんだなんだ」「世間知らずのお姫様の家出か?」とヒソヒソと囁き始めた。
目立つのは一番避けたいことなのに、どうすればいいのか分からない。
「もう、おかみさんったら。困ってるじゃない!」
その時だった。
鈴を転がすような、底抜けに明るい声が隣から響いた。
横からスッと差し出された白く滑らかな手が、銅銭をチャリンと卓の上に置く。
「この子の分、これで足りるでしょ? お釣りはもらって!」
「おお、こりゃ助かるよ! ありがとうねえ」
驚いて振り返ると、そこには私とそう年齢の変わらない、一人の少女が立っていた。
「ほら、こんな大金、人前で出しっぱなしにしちゃダメだよ」
「大丈夫? すごく困ってたみたいだから、つい声かけちゃった」
彼女はニカッと、ひだまりのように屈託のない笑顔を向けた。
身なりは非常に整っており、上質な絹の服に、上品な刺繍が施されている。
髪の結い方も美しく、どこかの高貴な妃か、良家のお嬢様がそのまま抜け出してきたかのような佇まいだ。
そして何より、彼女に近づいた瞬間、ふわりと『甘い匂い』が鼻腔をくすぐった。
安物の香油ではない。
気品のある、それでいてどこか人を惹きつける不思議な香り。
「……ありがとうございます。助かりました」
私は暗殺者の性で無意識に彼女の全身を観察し、警戒を解かずに慎重に頭を下げた。手には武器を握るタコもなく、歩き方にも武術の気配はない。
「気にしないで! 困った時はお互い様でしょ。わたしは秋英。あなたの名前は?」
親しげな、壁を一切感じさせない話し方。
「……凛花、です」
「凛花ちゃんね!」
秋英は私の顔をまじまじと見つめ、パァッと顔をさらに輝かせた。
「しっかしまあ、すっごく綺麗な子だねえ! 目が離せなくなっちゃう。それに、その細くてしなやかな柳腰なんて、同性のわたしでもうっとりしちゃうよ!」
彼女は手放しで私を褒めちぎり、それから小首を傾げた。
「……でも、こんなに目立つのに、どうして一人で旅なんてしてるの? 危ないよ」
無邪気な質問の裏に、純粋な疑問が隠れている。
確かに彼女の言う通りだ。
私は今まで黒蓮という闇の中に隠れていたから気付かなかったが、外の世界では、私の容姿はひどく人目を引くらしい。
(小鈴ちゃんに教わった化粧のやり方で、少し顔の印象を隠さないと駄目ね……)
心の中でそう決意しながら、私は言葉を探した。
「私は……その、少し事情があって」
言葉を濁す私に対し、秋英はそれ以上深く追求しようとはせず、あっけらかんと笑った。
「そっか! みんな色々あるもんね。実はわたしもね、連れの者と馬車で『異国の高級な茶葉』を運んでたの。今は無事に届け終わって、その帰り道ってわけ」
高級な茶葉。彼女から漂う品のある甘い香りも、そのせいかもしれない。
少しだけ興味を惹かれたが、私は無言で頷くにとどめた。
「ねえ凛花ちゃん、せっかくだから少しお話ししない?」
甘い香りを漂わせる、秋英と名乗ったこの不思議な少女。
彼女の底抜けの明るさが、冷え切っていた私の心に、ほんの少しだけ春の風を吹き込んだような気がした。




