鏡花の雫、散りゆく先に
深い森に囲まれた地方領主の別邸。そこでは今、民の血税を啜って太った豚たちが、欲望を剥き出しにした宴に興じていた。
豪華な装飾が施された大広間には、むせ返るような酒の匂いと、脂ぎった料理の香りが充満している。
その喧騒の端で、私は給仕の服を纏い、表情を殺して控えていた。
視線を送れば、広間の中央で舞を披露する小鈴ちゃんの姿がある。
透き通るような薄衣を翻し、幻想的に舞う彼女の美しさに、領主たちは卑しい目を細めて見惚れていた。
彼女の指先が微かに震えているのを、私だけが気づいていた。
(……大丈夫よ、小鈴ちゃん。もうすぐ終わるわ。すべてが)
私は懐に忍ばせた、致死の毒に見せかけた『特製の麻痺薬』を指先で確かめた。
チャンスは一度。
領主が次の杯を干す、その瞬間だ。
宴が最高潮に達し、領主が哄笑しながら空の杯を掲げた。
私はしなやかな足取りで近づき、恭しく一礼して極上の美酒を注ぐ。
その動作に紛れ、無色透明の雫を音もなく滑り込ませた。
「ほう、見慣れぬ顔だが、なかなかの別嬪ではないか。……ぐ、ぐっ!? 何だ、これは……っ!」
杯を飲み干した直後、領主の顔がどす黒く変色した。彼は喉を掻きむしり、口から白い泡を吹いて、ガタガタと巨体を震わせながら床に崩れ落ちた。
「旦那様!?」
「毒だ、毒が盛られたぞ!」
「暗殺者だ、捕まえろ!」
広間は一瞬にして阿鼻叫喚の渦に包まれた。
怒号が飛び交い、武装した護衛たちがなだれ込んでくる。
混乱の中、私は中央で立ち尽くす小鈴ちゃんの手を強く引いた。
「今よ、小鈴ちゃん!」
私たちは隠し持っていた、あの『鏡花の雫』の小瓶を同時に煽った。
その瞬間、心臓を氷の楔で貫かれたような、凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。視界が急速に白濁し、肺が空気を拒絶する。
「黒蓮……万歳……っ」
私は、追っ手たちに聞こえるように、わざとらしく任務失敗を嘆く偽りの遺言を吐き捨てた。
崩れ落ちる私の視界の端で、小鈴ちゃんもまた、血を吐くような苦悶の表情を浮かべて倒れ込んでいくのが見えた。
意識が闇に溶けていく直前、私の首元には、一時間ごとに一輪ずつ散りゆくという、目覚めを告げる『鈴蘭の模様』が、静かに浮かび上がっていた。
(ああ、身体が……冷たい。……お母様……小鈴ちゃん……)
――その後、何が起きたのか。
私たちの意識は、数時間の空白に包まれていた。
首元の鈴蘭が、一輪、また一輪と散っていく。
その間、私たちは完全に『死体』だった。
すべては、事前の目論見通りに運んだのだろう。
領主の護衛たちは、暗殺者が任務の失敗を苦にその場で服毒自殺したと断定したに違いない。
そして、自分たちの警備の不備が露見するのを恐れ、二人の厄介な死体を「汚れ物」として屋敷の裏手にある林へと、無造作に投げ捨てたのだ。
そこには、かつて処刑された罪人や、飢えで倒れた行き倒れたちの、腐りかけた死体が幾つも転がっていた。私たちはその地獄のような風景の一部として、放置されたのだ。
「……っ、げほっ……がはっ!」
肺に、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
反射的に体を跳ね上げ、私は激しく咳き込んだ。
心臓が痛いほどの拍動を再開し、全身に熱い血が巡り始める。
首元の模様を触れば、最後の一輪の鈴蘭が、ちょうど今、光となって霧散したところだった。
「……生きて、る……?」
ぼやける視界を必死に凝らして、周囲を見渡した。
白み始めた黎明の薄明かりの中、鼻を突くのは湿った土の匂いと、微かな死臭。
視界に入ったのは、自分たちのものではない、変わり果てた姿の骸の山だった。
震える手で地面を這い、すぐ近くに倒れている影を探す。
「小鈴ちゃん! 小鈴ちゃん、起きて!」
「……う……ん……凛花、ちゃん……?」
弱々しく目を開けた小鈴ちゃんが、朦朧とした意識の中で私の名を呼んだ。
その頬には泥がついていたが、確かに血色が戻り始めている。
私は彼女を力一杯抱きしめた。
冷たかった彼女の体温が、今は温かい。
それは、私たちがこの地獄を、死さえも欺いて生き残ったという、何よりの証明だった。
「成功、したんだね……わたしたち、本当に……」
「ええ。作戦通りよ。……領主も、きっと数時間後には目を覚ますわ。誰も殺さず、私たちだけが死んだことになった。……これで、いいの」
私たちは、転がっている他の死体たちに心の中で静かに謝罪と感謝を捧げ、ふらつく足取りで立ち上がった。
この林を抜け、街道へ出れば、そこには十数年間夢にまで見た、黒蓮の影のない世界が広がっている。
だが、安堵に浸っている時間はない。
蓮夜が戻り、この偽装に気づく可能性はゼロではないのだ。一刻も早く、この場所から離れなければならない。
「小鈴ちゃん。……約束通り、ここで一旦お別れね」
私は、小鈴ちゃんの肩に手を置き、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
事前に話し合った通り、二人が一緒に動けば目立ちすぎる。
お互いの安全のため、そしてそれぞれの目的を果たすため、私たちはバラバラの道を歩むことに決めていた。
「……うん。分かってる。わたし、凛花ちゃんに教えてもらったことを全部使って、絶対に見つからないように逃げ切るよ。……凛花ちゃんも、お母さんを絶対に見つけてね」
「ええ。……必ず、また会いましょう。明るい光の下で、美味しいものをたくさん食べると決めた、あの日の約束を果たすために」
私たちは最後にもう一度だけ、力強く抱き合った。
小鈴ちゃんは何度も振り返りながら、林の反対側へと走っていく。
その背中が見えなくなるまで、私は彼女の無事を祈り続けた。
そして、私もまた、逆の方向へと歩き出した。
重い足取りが、一歩ごとに軽くなっていくのを感じる。
籠の中から放たれた小鳥は、初めて知る空の広さに怯えながらも、その翼を力強く広げた。
(お母様。……待っていてください。必ず、あなたを見つけ出します。そして今度こそ、私たちの本当の人生を始めるんです)
背後の森を、昇り始めたばかりの朝日が黄金色に染めていく。
黒蓮の凛花は、ここで死んだ。
ここから先は、私という一人の人間の、新しい物語の始まりだった。




