日常という名の隠れ蓑と、仮死の毒の産声
お母様(明霞)が忽然と姿を消してから、数日が経過した。
屋敷を包んでいた蜂の巣をつついたような騒ぎは、まるで幻だったかのように、あっという間に潮が引くように収束していった。
私たちを囲む環境は、ひどく冷酷なまでに、いつもと何も変わらない『日常』へと戻っていた。
血と鉄の匂いが染み付いた冷たい石造りの廊下も、毎晩のように誰かの命を奪うための毒を調合する重苦しい空気も、何一つ変わっていない。
「……明霞の捜索は、手が空いている下位の者に引き続き行わせろ。だが、深追いはするな。我々の最も重きを置くべきは、明後日に控えた大商会の暗殺任務だ。絶対に穴を開けるな」
当主である蓮夜のその非情な命令が、捜索の事実上の『打ち切り』を意味していた。
暗殺一族・黒蓮にとって、一人の人間の命や行方など、その程度の価値しかないのだ。
たとえそれが、優秀な薬師であったとしても、だ。
彼らにとって重要なのは、目前の任務の遂行と、依頼主から支払われる莫大な報酬だけである。
お母様が自ら逃げたのではないと確信している私にとって、彼らのこの薄情さは腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えるものだった。
ただ、私はその感情を、分厚い氷の下に深く、深く沈み込ませた。
悲しみに暮れる素振りも見せず、私はいつものように無表情のまま、淡々と日々の毒味と調合の任務をこなし続けた。
蓮夜からすれば、私は『母を失って心を閉ざし、より一層自分(黒蓮)の支配下に堕ちた従順な人形』に見えているはずだ。
――でも、それは完全な間違いである。
彼らが捜索の優先度を下げ、私への監視の目が「任務の遂行」へと向いたこの油断こそが、私にとっては最大の好機だった。
その日の深夜。
誰も近づかない屋敷の最奥にある私たちの自室で、重い木の扉にしっかりと閂を下ろした私は、ランプの灯りを極限まで絞り、床に小さなゴザを敷いた。
「……小鈴ちゃん、起きてる?」
「うん。起きてるよ、凛花ちゃん」
寝台からそっと抜け出してきた小鈴が、私の隣にちょこんと座る。
私は、日々の任務の裏で、監視の目を盗んで少しずつ、本当に少しずつ着服し、床板の裏に隠し続けてきた小さな包みをいくつも取り出した。
「凛花ちゃん、それ……」
「ええ。ついに、すべての素材が揃ったわ」
私が包みを開くと、中からは独特の青臭い匂いを放つ乾燥した葉や、毒蛇から抽出した透明な牙の粉末、そして心臓の動きを緩やかにする特殊な木の実などが姿を現した。
どれも一つ間違えれば確実に命を奪う猛毒の素材だが、その配合を極限まで計算し尽くせば、奇跡のような作用を生み出すことができる。
「小鈴ちゃん。お母様がいなくなったことは、私にとって身を引き裂かれるような絶望だわ。……でもね、一つだけ、私たちの計画にとって決定的に有利になったことがあるの」
「有利になったこと……?」
小鈴ちゃんが、不思議そうに小首を傾げる。
私は、乳鉢に薬草を入れながら、極めて冷徹な事実を口にした。
「……逃亡の壁が低くなったわ」
「あっ……」
「大人であるお母様を含めた三人で、同時に黒蓮の目を誤魔化して逃げ切るには、大規模な陽動や、かなり大掛かりな偽装工作が必要だった。準備には、あと一年はかかっていたかもしれない。……でも、今は違う」
私は乳棒を握り、ゴリゴリと音を立てて薬草をすり潰し始めた。
「身軽な私と小鈴ちゃん。子供の二人だけで抜け出せばよくなった分、必要な毒の量も、逃走経路の確保も、圧倒的に少なくて済む。……思っていたよりずっと早く、行動に移せそうよ」
母親の失踪という悲劇すらも、生存のための計算式に組み込んでみせる。
そんな私の底知れない冷酷さに、小鈴ちゃんは一瞬だけ息を呑んだようだったが、すぐに私の不器用な強がりを察してくれたのか、私が誰よりも傷ついていることを分かった上で、優しく微笑んで頷いた。
「……そっか。うん、そうだね。二人なら、絶対に上手くいくよ」
「ええ。だからこそ、絶対に失敗できない。……今から、私たちの命運を握る『鍵』を作り始めるわ」
私は、すり潰した薬草の粉末を小さなすり鉢に移し、そこに数滴の特殊な油を垂らした。
ツンとした刺激臭が鼻を突く。
致死量の毒を土台にしながら、それを死に至る一歩手前で強制的に止めるための『拮抗剤』を、一厘の狂いもなく練り合わせていく。
人間の心拍数を極限まで低下させ、呼吸を仮死状態にし、体温を奪う。
そして一定時間が経過すれば、後遺症を残すことなく自然に覚醒する――そんな夢のような、いや、悪夢のような毒薬。
「……料理と同じよ。火加減と、素材の調和。絶妙なバランスで見えない味(効果)を引き出すの」
私は暗闇の中で、誰に見せるわけでもない、ひどく楽しげな、料理人としての笑みを浮かべていた。
黒蓮の連中は、私が絶望して服従したと思っている。
だが、とんでもない。
私の胸の奥では、彼らを出し抜いて自由を勝ち取るための、静かで熱い反逆の炎が、今まさに産声を上げて燃え盛ろうとしているのだ。
ゴリッ、ゴリッ、という乳棒の低い音が、深夜の冷たい部屋に静かに響き渡る。
それは、私と小鈴ちゃんが新しい世界へ踏み出すための、反逆への『時の刻み』の始まりだった。




