消えた温もりと、絶望の淵で繋いだ手
「……どうしたの。何があったのよ」
私はたまらず扉を開け放ち、廊下を小走りで通り過ぎようとした下働きの男の腕を掴んだ。
男は私を見るなりビクッと肩を震わせ、ひどく言いにくそうに視線を泳がせた。
「り、凛花様……。その、申し上げにくいのですが。……誰かが、屋敷から逃亡したとの報せが入りまして」
「逃亡? 黒蓮の監視の目を掻き潜って?」
「……はい。逃げたのは……あなたの母親である、明霞様だと」
――どくどく、と。
私の心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ねた。
頭の中から、サァーッと血の気が引いていくのが分かる。
「……嘘でしょ。お母様が、逃げた? どういうこと」
「昨日の夜半、明霞様は夜にしか花を開かない特殊な薬草を摘むため、裏山の北の尾根へ向かわれました。もちろん、腕の立つ監視の者を一人つけて。」
「……ですが、夜が明けても二人は戻らず、先ほど捜索隊が尾根に向かったところ、薬草を摘む籠だけが放置されていたそうです。」
「監視の者も戻っていないことから、彼を殺害、あるいは気絶させて逃亡したのではないかと……」
男の言葉が、ひどく遠くで響いているように聞こえた。
私は掴んでいた男の腕から手を離し、よろめくように数歩後ずさった。
男は一礼すると、再び慌ただしく廊下の奥へと消えていく。
(お母様が、逃げた……? 私を置いて……?)
信じられなかった。
母の明霞は、私にとってこの暗殺一族という狂った地獄における、唯一の光であり、絶対的な心の拠り所だった。
彼女が私に様々な薬学の知識を叩き込んだのは、いつか私自身が自分の身を守れるようにするためだ。
私という存在をこの真っ暗な闇の中に、あの蓮夜の狂気の中に置き去りにして、自分一人で逃げ出すはずがない。
「っ、はぁ……、はぁ……っ」
「凛花ちゃん!? 顔が真っ青だよ、しっかりして!」
急激に息を乱し、その場に崩れ落ちそうになった私の体を、背後から小鈴が必死に支え止めた。
昨夜の任務で、人の死に震えていたはずの小鈴は、今の私よりもよっぽど力強い腕で私の体を自室へと引き摺り込み、バタンと扉を閉めて閂をかけた。
「違う、お母様が……私を置いていくわけがない……っ! 何かあったのよ、お母様は……っ」
私は床にへたり込み、ボロボロと涙を溢しながら、幼い子供のように頭を抱えた。
もし母が本当に逃げたのだとしたら、私は完全に裏切られたことになる。
もし母が逃げたのではなく、監視の者に殺されたのだとしたら。
あるいは、何者かに攫われたのだとしたら。
次々と脳裏に浮かぶ最悪の想像が、私の理性をいとも簡単に粉々に打ち砕いていく。
「凛花ちゃん! 私を見て!」
パシンッ、と。
小鈴の小さな両手が、私の青ざめた両頬を力強く挟み込んだ。
ハッとして顔を上げると、小鈴が私の目を真っ直ぐに見据えていた。
暗殺の囮として標的に笑いかける時の顔じゃない。
かつてないほどの強い光を宿した、真剣な瞳だった。
「深呼吸して、凛花ちゃん。……昨日の夜、あなたがわたしに言ってくれたでしょ? 『三人で一緒に逃げ出して、明るい光の下へ行くの』って。その時、凛花ちゃんは絶対にお母さんのことも一緒に連れて行くつもりだったはずだよ」
「……小鈴ちゃん」
「わたしみたいな、花街から攫われてきただけの何の関係もない人間まで、一緒に助けようとしてくれたじゃない! そんな優しい凛花ちゃんのお母さんが、たった一人の娘を置いて逃げるわけがないよ! 凛花ちゃんが一番よく分かってるはずでしょ!?」
小鈴の叫びにも似た温かい声が、激しく取り乱していた私の脳に、冷たい水のように染み渡っていった。
彼女は、私の震える体を、かつて私が彼女にしたのと同じように、ギュッと力強く抱きしめてくれた。
同じ地獄で育ち、寄り添い合ってきた彼女の小さな体から伝わる確かな温もりが、バラバラになりかけていた私の心を、少しずつ元の形へと繋ぎ止めていく。
(……そうよ。小鈴ちゃんの言う通りだわ)
私は、小鈴の背中に腕を回し、ゆっくりと深く息を吐き出した。
濁っていた思考が、恐ろしいほどの速さで冷徹なまでの冷静さを取り戻していく。
母・明霞は、自分の命よりも私を愛してくれていた。
私を守るためなら、黒蓮のどんな過酷な仕打ちにも耐えてみせた。
そんな母が、自らの意志で私を置いて逃亡することなど、天地がひっくり返っても絶対にあり得ない。
だとしたら、答えは一つしかない。
母は、逃げたのではない。『何らかの理由で、自分の意志とは無関係に姿を消さざるを得なかった』のだ。
監視の暗殺者もろとも消え去るような、強力な『外部の者の手』が加わったのか。
それとも、尾根の崖から滑落するような不慮の事故か。
……いや、今はその理由を推測しても意味がない。
確かなのは、母が今、この黒蓮の屋敷にはいないということ。
そして、私がここで泣き崩れていても、誰も母を助けてはくれないということだ。
「……ありがとう、小鈴ちゃん。もう大丈夫。……私、少し取り乱してしまったわ」
私は小鈴の体をそっと離し、彼女の目を見て、いつものように力強く微笑んでみせた。
「お母様は、絶対に自分からは逃げていない。……生きているわ。だから、私たちがここを抜け出して、お母様を見つけ出さなきゃいけないの」
「うんっ……! わたし、凛花ちゃんについていくよ。何があっても」
小鈴が、涙を拭って力強く頷いた。
母の庇護を失った今。
私たちがこの狂った闇の中で生き残るためには、もう一刻の猶予もない。
これまで頭の中で構想を練っていただけの、二人で脱出するための『仮死の毒』。
その調合を、一刻も早く完成させなければならない。
冷たい石の床の上で私は小鈴の手を固く握り締めながら、逃亡という名の反逆を、確かな『義務』として心に誓ったのだった。




