偽りの血筋と、夜明けの騒乱
標的となった大貴族の屋敷は、火の気が完全に消え、水を打ったように静まり返っていた。
一滴の血も流れていない。
今宵の豪奢な晩餐を満足げに平らげた後、まるで心地よい深い眠りにつくように、豪勢な寝所で静かに息を引き取ったのだ。
私たち黒蓮の仕事は、決して目立ってはならない。
ただの病死、あるいは寿命。そう周囲に錯覚させることこそが、極上の暗殺である。
屋敷の裏手、鬱蒼と茂る木々に囲まれた闇に紛れた合流地点。
無事に任務を終えて屋敷を抜け出してきた私と、震える手を必死に押さえている小鈴を囲むように、黒蓮の凄腕の暗殺者たちが口々に感嘆の声を漏らしていた。
「……見事な手際だ、凛花様。あれほど厳重な警護が敷かれていたにも関わらず、誰一人として違和感に気付くことなく、見事に食事へあの遅効性の毒を仕込まれるとは」
「ええ。屋敷を立ち去る前に標的の様子を確認しましたが、その顔には苦悶の表情一つありませんでした。我らのような刃物を使った血生臭い力技の暗殺とは格が違う。まさに芸術的な手腕……!」
闇に溶け込む黒装束の男たちの目には、私への明確な畏怖と、次期当主の『妹』としての狂信的な敬意が宿っている。
彼らにとって、痕跡を残さず確実に命を刈り取る私の毒の知識は、もはや神業のように映っているのだろう。
「……当然だ」
ふと、木々のざわめきすらも凍りつくような、ひどく冷たく、そして酷薄な喜悦に満ちた声が闇の奥から響いた。
音もなく私たちの前に現れたのは、暗殺一族の若き当主であり、私にとってかつて絶対的な恐怖の象徴であった『兄』、蓮夜だった。
雲の切れ間から差し込んだ青白い月明かりに照らされた彼の左目の下で、黒い蓮の刺青がまるで生き物のように妖しく蠢いている。
蓮夜は、私を讃えていた暗殺者たちを絶対者のごとき冷酷な視線で睥睨した後。
ゆっくりと私に歩み寄り、かすかに血の匂いが染み付いた冷たい手で、私の頬から髪へと、ひどく愛おしそうに撫で下ろした。
「この凛花は、俺と同じ殺戮の闇を歩き、空腹を満たせる、この世で唯一の半身だ。これくらいの手際、我が妹にとっては造作もないことだろう。……なんせ、俺と同じ『黒蓮の濃い血筋』が、その華奢な体の奥深くに流れているのだからな」
蓮夜は、私の髪を指に絡めながら、ひどく誇らしげに目を細めた。
その言葉を聞いた瞬間。
私の心臓の奥底に、氷のように冷たい泥を飲み込んだような、ひどく重く、そして滑稽な感情が渦巻いた。
(……同じ血筋。……ええ、そうね、兄様)
彼がどれほどその『血の呪縛』に異常な執着を示し、私を永遠にこの暗殺一族の闇へと繋ぎ止めようとしても。
私と彼の間に、血の繋がりなどただの一滴も存在しないのだ。
あの時、真実を知ってしまった今の私からすれば、彼のこの自信に満ちた言葉は、あまりにも滑稽だった。
彼はその決定的な事実を一切知らないまま、存在しない偽りの血の絆に縋り、私を狂おしいほどに求めている。
その事実がたまらなく哀れで、そして同時に、底知れない恐ろしさを孕んでいた。
「……お褒めにあずかり光栄です、兄様。ですが、少し疲れました。今日はもう、下がって休ませていただきます」
私は、顔を引きつらせないように必死に表情を律し、彼の執着に満ちた冷たい手からそっと逃れた。
そして、背後で顔を真っ青にして立ち尽くしている小鈴の肩を、庇うように抱き寄せた。
蓮夜は、指先から私の温もりが消えたことに不満げに眉をひそめたが、「……まあいい。見事な仕事だった。ゆっくり休め」とだけ言い残し、暗殺者たちを引き連れて、再び深い夜の闇の中へと溶けるように消えていった。
黒蓮の冷たい屋敷の自室に戻り、重い木の扉を閉めて閂を下ろした瞬間。
小鈴は、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたように、その場にへたり込んだ。
ガタガタと華奢な肩を激しく震わせ、両手で顔を覆って、声にならない嗚咽を漏らしている。
「凛花ちゃん……っ、わたし、怖かった……。人が、あんなに簡単に、何も知らないまま命を落とすなんて……っ」
「……小鈴ちゃん」
私は冷たい床に座り込み、極度の恐怖に震える彼女の背中を、一定のリズムで優しく、何度も何度も撫で続けた。
彼女は、本来ならこんな裏社会とは無縁の、ただの心優しい普通の女の子なのだ。
人が死ぬ瞬間を間近で見て、しかもそれに自分が(たとえ望まぬ形であれ)加担してしまったという事実は、彼女の心を容易く壊してしまうほどの重圧だろう。
「ごめんね、小鈴ちゃん。あなたにまで、こんな恐ろしい思いをさせてしまって。……でも、大丈夫よ。泣かないで」
私は、彼女の耳元で、誰にも聞かれないように極めて小さな声で囁いた。
「私に、確かな考えがあるの」
「考え、って……?」
「私たちは、必ずここから抜け出すわ。お母様と三人で一緒に、こんな血の匂いしかしない狂った場所から逃げ出して、明るい光の下へ行くの。……だから、もう少しだけ、私を信じて待っていて」
私が強い決意を込めてはっきりと告げると、小鈴は涙に濡れた目で私を見上げ、すがりつくように強く私の服の袖を握りしめ、こくりと小さく頷いた。
私と小鈴。
二人だけでこの異常な一族から完全に姿を消すための、起死回生の策。
お母様から密かに教わった薬学の知識と、私のあらゆる毒の調合技術を駆使すれば、絶対に不可能なことではない。
……準備には、まだ少し時間がかかるけれど。
私は決意を新たに、泣き疲れて眠ってしまった小鈴に毛布をかけ、自分も短い眠りについた。
――翌朝。
「……何事だ! 早く探せ!!」
「正門の見張りはどうなっていた!? 誰か通った形跡はないのか!」
外から聞こえてくるけたたましい怒号と、何人もの慌ただしい足音で、私はふと目を覚ました。
いつもであれば、不気味なほどに死んだように静まり返っている黒蓮の屋敷が、今朝はひどく異様な騒ぎと緊迫感に包まれている。
「……凛花ちゃん? 外、なんか騒がしいね……こんな朝早くから」
目を擦りながら起きてきた小鈴と共に、私はそっと部屋の重い木の扉を開け、細く隙間を作った。
冷たい石造りの廊下を、血相を変えて走っていく暗殺者たちの焦燥しきった顔。
それは、ただの外部からの侵入者を警戒するような騒ぎではない。
身内に関する、もっと決定的な『一大事』が起きている空気だ。
それを見て、私の胸の奥に、得体の知れない嫌な予感が、黒い染みのようにじわじわと広がっていくのだった。




