暗闇の凶刃と、癒えない傷跡
一寸先も見えない完全な暗闇と、むせ返るような血の匂い。
あちこちで断末魔の叫びが上がる地獄の底で、私は震える手を伸ばし、柱の根元で倒れている少年の口元に、小さな陶器の小瓶を押し当てた。
(……お願い、間に合って。……生きて)
私が注ぎ込んだ解毒剤が、ごくり、と少年の喉を通り抜ける。
数秒後。荒く途切れがちだった彼の呼吸が、微かに、しかし確かな『息継ぎ』を取り戻した。
毒による内臓の激痛が和らいだ証拠だった。
「……はぁっ、はぁ……」
暗闇の中、少年の顔の輪郭がおぼろげに浮かび上がる。
彼は、ひどい熱に浮かされたように薄く目を開け、自分を抱き起こしている私の顔を、焦点の合わない瞳でじっと見つめた。
彼が、何かを言おうとして唇を動かす。
「誰だ」と責められる覚悟はできていた。
私が用意した料理のせいで、彼は死ぬほどの苦しみを味わったのだから。
だが、彼の口から紡がれたのは、私の予想をはるかに裏切る、信じられないほど純粋な言葉だった。
「……お姉、ちゃん……」
私より年上に見えるはずの彼が、毒の苦しみと熱のせいで、ひどく幼い子供のように掠れた声で呟く。
「さっきの……お料理。……すっごく、美味しかった……。……ありがとう……」
「……っ!」
その瞬間、私の目から、限界まで堪えていた大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
毒を盛られて死にかけているというのに。
自分がなぜ苦しんでいるのかすら分かっていない暗闇の中で、彼は、私の作った料理の『美味しさ』だけを覚え、私に感謝を伝えてくれたのだ。
――人を笑顔にする料理を作りたい。
私の、お母様との大切な温かい記憶。
黒蓮という地獄の底で、人を欺くための道具として料理をさせられ、完全に諦めかけていたその光を、この見ず知らずの少年は、その無垢な言葉で真っ直ぐに救い上げてくれた。
(この人は、絶対に死なせない。……私の命に代えても!)
私が、熱を持った少年の手を強く握り締め直した、その時だった。
ピチャッ、と。
すぐ数歩先の絨毯を、血濡れた足袋が踏みしめる重い音が響いた。
「……チッ、暗くて面倒だな。まだ息のある豚はいないか」
地の底から響くような、黒蓮の暗殺者の声。
私の心臓が、恐怖で凍りついたように跳ねた。
掃除人だ。
暗闇の中で生き残っている標的を確実に見つけ出し、首を刎ねるための部隊。
足音は、迷うことなくこの柱の方向へと真っ直ぐに向かってきていた。
(見つかる)
このままでは、少年が解毒されて息を吹き返したことがバレる。
そうすれば、彼は今度こそ確実に、鋭い刃で命を刈り取られてしまう。
隠れる場所はない。逃げる隙もない。
暗殺者の足音が、もう目の前まで迫っていた。
……どうすればいい。この人を、生かすためには。
極限の絶望の中で、お母様から教わった薬学の知識と、黒蓮で叩き込まれた暗殺の技術が、私の頭の中で最悪の『答え』を導き出した。
(……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい)
私は、少年の体をうつ伏せに転がすと、太ももに隠し持っていた『小さなナイフ』を音もなく引き抜いた。
手が、ガタガタと震える。
人を救うための薬師になりたかった私の手が、今から、私を救ってくれたこの少年の体に、一生消えない傷を刻もうとしている。
「――ごめんね。生きるために、ちょっとだけ我慢してね」
私は、少年の耳元でそう囁くと同時に、その小さなナイフを逆手に握り、少年の無防備な背中へと、躊躇いなく振り下ろした。
「――っぁあぁぁぁっ!!」
暗闇の広間に、少年の一際甲高い、絶望的な悲鳴が響き渡った。
刃は、命に関わる致命傷(臓器)は完璧に避けつつも、背中の肉を深く、残酷に切り裂いていた。
とめどなく溢れ出した鮮血が、彼の上等な絹の服をどす黒く染め上げていく。
少年は、激痛のあまり体をビクンと跳ねさせると、そのまま完全に気を失い、糸の切れた人形のように動かなくなった。
「……おい。そこで何をしている」
直後。
私の背後に、刀を構えた暗殺者が音もなく立ち、冷酷な声を投げかけてきた。
私は、血塗られたナイフを握り締めたまま、ゆっくりと立ち上がった。
ここで少しでも恐怖や悲しみの色を見せれば、私も少年も終わりだ。
私は、自分の中にある感情をすべて氷の底に沈め、黒蓮の教官たちが作り上げた『完璧な人形』の顔を顔面に張り付けた。
「……息があったようなので、止めを刺しました」
私の声は、自分でも恐ろしいほどに平坦で、一滴の温度も含まれていなかった。
暗殺者は、暗闇の中で倒れる少年の背中から噴き出す血の匂いと、私の手にある血濡れたナイフを一瞥した。
「……ほう」
暗殺者の喉が、気味の悪い感心の音を鳴らした。
「まだ子供の小娘が、標的のガキの背中を微塵の躊躇いもなく掻き切るとはな。……見事な手際だ。完全に息の根が止まっている」
致命傷を避けたとはいえ、あれだけの出血と痛みなのだ。
深い昏睡状態に陥った少年の呼吸は限界まで浅くなり、暗殺者の目にも完全に『死体』として映っていた。
「見事な仕事だ、道具。さっさと裏口へ抜けろ」
「……はい」
暗殺者が次の獲物を求めて去っていくのを気配で確認した瞬間。
私は、足の力が抜け、血だまりの中に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
(……生きて。絶対に、生きて)
血の海に沈む少年の背中を最後に一度だけ見つめ、私は振り返ることなく、修羅場と化した広間を駆け抜けた。
私の手は、温かい料理の匂いではなく、私を救ってくれた少年の血の匂いでべっとりと汚れていた。




