暗闇の惨劇と、ただ一つの光
ドサッ……!
広間の中央で、毒を口にした恰幅の良い貴族が、激しく黒い血を吐いて倒れ込んだ。
豪奢な絨毯が、どす黒い染みに覆われていく。
数秒の不気味な静寂の後、広間を揺るがすような悲鳴があちこちから上がり始めた。
「ひ、ひぃぃっ! なんだ、どうした!」
「毒だ! 料理に毒が入っているぞ!!」
次々と大人が喉を掻き毟り、ある者は泡を吹いて床をのたうち回り、ある者は助けを求めて扉へとすがりつく。
私が仕込んだ遅効性の毒が、一斉に牙を剥いたのだ。
(……いや)
私は、壁際で身を潜めながら、広間の下座に近いあの柱の陰を凝視していた。
権力闘争にも欲にもまみれていない、ただ私の料理を心から「美味しい」と笑って食べてくれた、私より少し年上の少年。
彼が食べていたあの膳は、本来なら敵対する勢力の頭目が座るはずの席だった。
なぜあの少年がそこに座り、致死量の毒が仕込まれた肉料理を口にしてしまったのか。
理由は分からない。
だが、現実は残酷だ。
私の視線の先で、少年の顔からあの太陽のような笑顔が消え失せ、彼が苦しげに胸を掻き毟りながら、柱の根元へと崩れ落ちるのが見えた。
「――っ!」
喉の奥で、悲鳴にならない悲鳴が弾けた。
これまでの任務で、私は何人もの大人に毒を盛ってきた。
その全員にこっそりと解毒剤を飲ませ、誰の命も奪うことなく「誰も殺さない暗殺者」としての誓いを守り抜いてきた。
対象が醜悪な大人たちであっても、私は命を奪わなかった。
お母様のような薬師になりたかった。
人を救い、お母様と一緒に厨房に立って「人を笑顔にする料理」を作りたかった。
(……あの子は、その私の夢を、たった一口で叶えてくれた人なのに)
あんなに美味しそうに、純粋に私の料理を喜んでくれた人を、私自身の作った毒で殺してしまう。
そんなこと、絶対に許されるはずがなかった。
私が懐の解毒剤の小瓶を強く握り締め、彼のもとへ駆け出そうとした、その瞬間。
ヒュッ、と風を切る鋭い音が広間に響き渡った。
それを合図にしたかのように、広間を煌々と照らしていた無数の黄金の燭台が、見えない刃によって次々と薙ぎ払われ、火が吹き消されていく。
パツン、パツンと、音を立てて光が死んでいく。
ほんの数秒の間に、豪奢な宴の席は、一寸先も見えない『完全な暗闇』へと塗り潰された。
「な、なんだ!? 明かりをつけろ!」
「誰かいないか! 護衛はっ……ぎゃあぁぁっ!!」
暗闇の中で、肉を裂き、骨を断つ、生々しく湿った音が響き始めた。
黒蓮の暗殺部隊だ。
毒による混乱に乗じ、暗闇に紛れて確実に標的の命を刈り取るための、無慈悲な『掃除』が始まったのだ。
むせ返るような香の匂いが、鉄錆のような強烈な血の匂いに塗り替えられていく。
私のすぐ横を、音もなく黒装束の影が通り過ぎていく気配がした。
少しでも不審な動きを見せれば、味方であるはずの私でさえ、その刃の餌食になるだろう。
(……早く。急がないと、毒が回って死んでしまう)
私は、暗闇の中で目を閉じ、全神経を聴覚と触覚に集中させた。
黒蓮の苛烈な訓練は、私の心を削り取ったが、同時にこの暗闇を生き抜くための完璧な「身体能力」を叩き込んでくれていた。
逃げ惑う大人たちの足音、刀が空を切る音、断末魔の叫び。
それらの音の渦を掻き分け、私は記憶の中にある「広間の見取り図」を頼りに、音もなく床を這うようにして進んだ。
「ぐっ、助け……て……」
足首を掴んできた血まみれの貴族の手を、感情を殺して無言で振り払う。
彼にも解毒剤を飲ませるべきなのだろう。
ただ、今はそれどころではない。
この暗闇の中で、黒蓮の追手に見つかる前に、あの少年のもとへ辿り着かなければならない。
(……どこ、どこなの)
這いつくばりながら、絨毯の感触を確かめる。
倒れた膳。割れた陶器の破片。
それらを避けるようにして進み、ついに私の指先が、冷たく太い木の感触――下座の柱を捉えた。
「……っ」
柱の根元。
そこに、ひどく浅く、かすれた呼吸を繰り返す小さな丸い背中があった。
間違いない。
上等な絹の服の感触。あの年上の少年だ。
「……う、うぅっ……」
少年は、暗闇の中で喉を掻き毟り、もがき苦しんでいた。
私が仕込んだ毒は、内臓を内側から焼き焦がすような痛みを伴う。
私の料理をあんなにも笑顔で食べてくれた彼に、こんな地獄の苦しみを与えてしまった。
(ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい)
私は、声に出せない謝罪を心の中で何度も繰り返し、震える手で彼の上体を抱き起こした。
暗闇の中で、彼が微かに目を開けた気配がした。
私は急いで懐から小瓶を取り出し、蓋を口で引き抜く。
(……お願い、間に合って。……生きて)
私の手が、少年の熱を持った唇に小瓶の縁を押し当てた。
広間では未だに惨殺が続き、黒装束の暗殺者たちの足音が、すぐそこまで迫っていた。




