外壁の上の月と、忘れられた味
空になった土鍋を見つめたまま、蓮夜はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
やがて、彼はふと我に返ったように私の顔を鋭く見据え、次の瞬間には私の腕を強く掴んでいた。
「……来い」
「えっ……きゃっ!?」
声を上げる間もなかった。
蓮夜は、私を小脇に抱え上げるや否や、音もなく厨房の窓から夜の闇へと飛び出した。
黒蓮の屋敷を囲む、高くそびえ立つ石造りの外壁。
彼はその垂直に近い壁を、まるで重力が存在しないかのように、わずかな出っ張りだけを蹴って軽々と駆け上がっていく。
冷たい秋の夜風が頬を打ち、数秒後、私たちは外壁の最も高い場所――屋敷全体と、遠く王都の街並みが見渡せる屋根の上に降り立った。
「……っ、急に何を……!」
私が乱れた息を整えながら抗議の声を上げようとすると、蓮夜は瓦の上に静かに腰を下ろし、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げたまま口を開いた。
「……あれは、何を入れた」
彼の声は、いつもの氷のように冷酷な響きではなく、ひどく戸惑っているような、迷子の子供のような震えを帯びていた。
「ただの鶏粥です。それに、血流を良くして体を温める薬草と、食欲を刺激する生姜や葱を合わせた薬味を乗せただけ……」
「嘘をつけ」
蓮夜が、私を鋭く睨む。
「あんな……あんなに胸の奥が熱くなるようなものが、ただの草や根っこのはずがない。お前は、俺にどんな術をかけた。どうして俺は、あんなに……あんなに、無我夢中で……っ」
彼は自分の胸ぐらを強く掴み、ギリッと唇を噛んだ。
美味しいものを食べた。
ただそれだけのことが、彼にとっては己を制御できなくなるほどの「未知の恐怖」であり、同時に抗いがたい「圧倒的な快感」だったのだ。
「……術なんて、使っていません。ただ、あなたがずっと『食べる喜び』を忘れていたから、体が、心が、びっくりしただけです」
私は、彼から少し距離を置いた瓦の上にそっと腰を下ろした。
「……どうして、あなたはあんなに感情を殺して、味もしないような食事を作業みたいに食べていたんですか? あなたは、私たちみたいに攫われてきた人間じゃない。黒蓮の、立派な一族なんでしょう?」
私の問いかけに、蓮夜はふいと目を逸らし、再び遠くの月を見上げた。
長い沈黙が流れた。彼が私をここへ連れてきたのは、私を罰するためではなく、彼自身の中で暴れ出した「感情」の理由を知りたかったからだ。
「……俺の父上と母上は、黒蓮の中でも最高位に座る暗殺者だ」
やがて、夜風に溶けるような静かな声で、蓮夜が語り始めた。
「俺は、その二人から『完璧な後継ぎ』として産み落とされた。……だが、あの人たちは、俺が少しでも子供らしく笑ったり、泣いたり、痛がったりすると、酷く失望した顔をした。『そんな不要な感情を持つ者は、我が一族にはいらない』と」
蓮夜の横顔は、彫刻のように美しく、そして悲惨なほどに冷え切っていた。
「父上と母上が唯一、俺を見て微かに頷いてくれる時。それは、俺が心を完全に殺し、一切の感情を交えずに、与えられた暗殺任務を『完璧な道具』としてこなした時だけだった。……俺は、あの人たちに褒められたかった。ただ、認められたかったんだ」
(……あぁ)
私は、自分の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるのを感じた。
私と彼は、正反対のようでいて、実はとてもよく似ていたのだ。
私は、お母様を助け、お母様の愛に応えるために、心を殺して黒蓮の完璧な道具(毒使い)を演じている。
そして蓮夜もまた、両親からの愛(承認)を得るためだけに、自分の心を刃物で削り落とし、完璧な道具へと成り下がろうとしていた。
「……完璧な暗殺者になるために、痛みも、恐怖も、悲しみも全部捨てた。そうしたら、いつの間にか……『美味しい』という感覚も、思い出せなくなっていた。飯はただ、任務のために体を動かす糧でしかなかった」
蓮夜は、自嘲するように短く息を吐いた。
「だが……さっき、お前の作ったあの粥を食べた時。……ずっと冷え切っていた腹の底が、急に熱くなった。遠い昔に、たった一度だけ、母上が俺の頭を撫でてくれた時と同じような……馬鹿げた温かさを、思い出してしまったんだ」
その言葉の端に滲んだ、どうしようもないほどの寂しさと孤独。
それが、純血の暗殺者・蓮夜の、誰にも言えなかった真実の姿だった。
「……蓮夜様」
私は、懐に忍ばせていた小さな包みを取り出し、彼の隣へと少しだけ歩み寄った。
「これ。小鈴ちゃんと一緒に食べようと思って、厨房でこっそり作っていたお菓子です」
包みを開くと、中には蜂蜜と胡麻を絡めてカリッと揚げた、小さくて素朴な木の実の菓子が数粒入っていた。
蓮夜は、怪訝な顔でそれを見つめた。
「……俺はもう、腹はいっぱいだ」
「これは、お腹を満たすためのものじゃありません。心を満たすためのものです。……一緒に、食べましょう?」
私が一粒つまんで自分の口に入れ、ふわりと笑ってみせると、蓮夜は躊躇いながらも、そのごつごつした、血塗られた指先で小さなお菓子を一つ摘み上げた。
彼がそれを口に入れ、カリッと噛み砕く音が、静かな夜の屋根の上に響く。
「……甘い」
蓮夜が、目を丸くして呟いた。
「はい。とっても甘くて、美味しいでしょう?」
「……あぁ」
月明かりの下。
黒蓮の冷酷な暗殺者であるはずの少年は、蜂蜜の甘さに顔をほころばせ、初めて年相応の、ひどく不器用で、ぎこちない笑顔を浮かべた。
それは、夜風よりもずっと静かに、けれど確実に、彼と私の間にあった分厚い氷の壁が溶け落ちた瞬間だった。
私は、この時ようやく確信した。
この少年は、敵ではない。
私と同じように、親への想いに縛られ、暗闇の中でもがいている、ただの寂しい男の子なのだと。




