暗闇の純血と、偽りのトドメ
蓮夜との出会いから数日後。
私と小鈴は、王都の裏路地にひっそりと佇む、さる高官の隠れ家に潜入していた。
今回の任務は、黒蓮にとっても絶対に失敗の許されない大規模な粛清だった。
そのため、私たちのような『使い捨ての道具(子供たち)』だけでなく、黒蓮の血を引く本物の暗殺者たちも同時に屋敷に放たれていた。
そしてその中には、あの夜に出会った少年――蓮夜の姿もあった。
「……旦那様。夜風が冷えてまいりました。温かいお茶をお持ちしましたわ」
離れの寝所。
小鈴が、色気と無邪気さを完璧に織り交ぜた声で、標的である高官に近づく。
男が小鈴の愛らしい笑顔に気を取られている隙に、私は音もなく背後に回り、卓の上の酒器に『毒』を滑り込ませた。
今回の毒は、じわじわと内臓の機能を停止させる遅効性のものだ。
「おお、気が利くな。……ん? ぐっ……!?」
男は酒器を干した直後、突然胸を掻き毟り、激しく咳き込んで畳の上に崩れ落ちた。
口の端から、黒い血が滴り落ちる。
ここまでは、いつも通りの私たちの「任務」だ。
あとは、この男が気を失ったところで、私がこっそりと解毒薬を飲ませて逃亡すればいい。
だが、その時だった。
「……手際が悪いな」
音もなく。
本当に、障子が風に揺れるほどの気配すらなく、暗闇から一人の少年が姿を現した。
「ひっ……!」
小鈴が短く悲鳴を上げ、私の背中に隠れる。
月明かりに照らし出されたのは、漆黒の装束に身を包んだ蓮夜だった。
彼の手には、薄く、刃こぼれ一つない冷たい短刀が握られている。
刃先からは、別の部屋で始末してきたであろう標的の血が、ポタ、ポタと畳に落ちていた。
「毒の回りが遅い。……確実に殺すなら、急所を突くのが一番だ」
蓮夜は、もがき苦しむ男を見下ろし、まるで道端の石ころをどかすような無感情な手つきで、短刀を振り上げた。
彼の目には、他者の痛みを憐れむ感情も、殺しに対する躊躇いも、あるいは快楽すらも存在しない。
ただ「任務を遂行する」という、機械のような冷酷な意思だけがそこにあった。
(……これが、黒蓮の『純血』)
本物の暗殺一族の血筋が持つ、圧倒的なまでの『死』の気配。
ここで彼に短刀を振り下ろされては、私がこの男の命を救うことができなくなってしまう。
誰も殺さないと誓った、私の決意が。
「――お待ちください、蓮夜様」
私は、震えそうになる膝を必死に押さえ込み、蓮夜と標的の男の間にスッと割って入った。
「……なんだ、お前は。俺の邪魔をする気か」
蓮夜の氷のような視線が、私を射抜く。
殺される。
少しでも不審な素振りを見せれば、彼の手の短刀は躊躇なく私の喉笛を掻き切るだろう。
私は、極限の恐怖の中で『完璧な優等生』の仮面を顔に張り付け、冷たく論理的な声を作った。
「邪魔など滅相もございません。ただ、ここで刃物を使えば、大量の血が畳や障子に飛び散ります。この毒は『急な発作』に偽装するためのもの。刃傷を残せば、黒蓮の関与を疑われる隙になりかねません」
蓮夜の目が、わずかに細められた。私の言葉の筋が通っているかを測っているのだ。
「私に、確実なトドメの『劇薬』がございます。……お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。ここは、私どもにお任せください」
私は深く頭を下げ、懐から小さな陶器の小瓶を取り出してみせた。
沈黙が降りた。蓮夜の短刀から、血の雫が落ちる音がやけに大きく聞こえる。
「……俺は、手際が悪いのは嫌いだ。二度手間をかけさせるな」
蓮夜は、短くそれだけを言い捨てると、チャキッと短刀を鞘に収めた。
「終わったら、さっさと帰還しろ」
「はい。御意に」
振り返ることもなく、蓮夜は再び夜の闇へと溶けるように消えていった。
彼が完全に屋敷から離れたことを気配で確認した瞬間、私はへたり込みそうになる足に鞭を打ち、倒れている男の口に、小瓶の液体――『解毒剤』を流し込んだ。
「……ごほっ、がはっ……!」
「静かに。……これを飲めば、三日は高熱が出ますが、命は助かります。
夜が明けたら、ありったけの金を持って王都から逃げなさい。二度と、戻ってきてはダメ」
男は、荒い息を吐きながら、信じられないものを見るような目で私を見つめ、震える手で何度も頷いた。
私は、彼が裏口から転がるように逃げていくのを見届け、ようやくその場にへたり込んだ。
――屋敷に帰還し、与えられた冷たい部屋の布団に潜り込んだ後も、小鈴の震えは止まらなかった。
「……凛花ちゃん。あの人、人間じゃないよ。……目が、真っ暗だった。本当に、息をするみたいに人を殺すんだね……」
小鈴は、私の腕にしがみつきながら、怯えた小鳥のように囁いた。
「……うん。怖いね、小鈴ちゃん」
私は、彼女の背中を優しくさすりながら、暗闇の天井を見つめた。
蓮夜は、確かに恐ろしい。
彼の中には、私たちが知っているような「温かい感情」は微塵も存在しないように見えた。
私の頭の片隅には、どうしても拭い去れない一つの『違和感』がこびりついていたのだ。
(……あの人は、人を殺すことを『楽しんで』はいなかった)
あの時、彼が放っていたのは、狂気や残酷さではない。
ただの「虚無」だった。
まるで、自分の意志など最初から存在せず、誰かの命令を忠実にこなすだけの、精巧なからくり人形のような。
純血の暗殺者として育てられ、親の期待に応えるためだけに、心を殺して生きている少年。
(……もしそうなら、あの人も、私たちと同じ『黒蓮の犠牲者』なんじゃないの……?)




