初めての暗殺、そして慈悲のトリック
その夜、王都の郊外にある豪奢な屋敷は、異様な熱気に包まれていた。
主である悪徳商人、張の還暦を祝う宴が催されていたのだ。
黒蓮を裏切り、敵対組織に情報を流していたこの男の命を奪うこと。
それが、私たちに下された初めての「任務」だった。
「……小鈴ちゃん、大丈夫?」
屋敷の裏手、余興の舞踊団が待機する天幕の中で、私は小鈴の肩にそっと手を置いた。
彼女は、花街の少女らしい、赤や黄色を基調とした派手で艶やかな絹の衣装に身を包んでいた。
化粧も完璧だ。
しかし、その完璧な笑顔の裏で、小鈴の体は小刻みに震えていた。
「うん……大丈夫だよ、凛花ちゃん。……生き残るためだもんね」
小鈴は、自分に言い聞かせるように微笑んだ。
私は、地味な下女の服を着て、手には給仕用の盆を持っていた。
盆の上には、これから宴席で振る舞われる、お祝いの甘い『汁粉』の器が並んでいる。
「……時間だ。行け」
天幕の陰から、黒装束の教官の声が響く。
小鈴は大きく深呼吸をすると、私の手を一度だけ強く握り、鈴を転がすような足取りで天幕から飛び出していった。
――宴席の広間に入った瞬間、小鈴は完璧な『最高の華』へと変貌した。
「ささ、旦那様方! 今宵のお祝いに、私どもの舞をご覧くださいませ!」
小鈴の声が響き渡ると、広間の喧騒がピタリと止まった。
三味線の音色に合わせ、小鈴がしなやかに舞い始める。
絹の衣装がふわりと翻り、彼女の大きな瞳が、上座に座る肥え太った男――標的の張を真っ直ぐに見つめた。
「ほう……これは、上玉だ」
張は、欲望にまみれた醜悪な顔をニチャリと歪め、小鈴の踊りに釘付けになった。
小鈴は、完璧な無邪気さと、花街で培われたほんの少しの色気を使い分け、張の警戒心を完全に解きほぐしていく。彼女が舞うたび、広間には感嘆の声が上がった。
( ……今だわ)
私は、影のように気配を消し、張の隣に立つ給仕の列に紛れ込んだ。
盆の上の汁粉。その中の一つに、私は訓練で学んだ、無味無臭の遅効性の痺れ毒『七日殺』を仕込んでいた。飲み干してから数時間後に呼吸が止まる、恐ろしい毒だ。
「旦那様。お祝いの、特別に甘いお汁粉でございます。……私、旦那様の還暦を、心からお祝い申し上げたくて」
私は、小鈴に負けないほどの無邪気な笑顔で、張の目の前に毒入りの汁粉の器を置いた。
張は、小鈴の踊りに夢中で、私のことなど単なる石ころのようにしか思っていない。
「おお、そうか。気が利くな、小娘」
張は躊躇なく器を手に取り、その汁粉を一気に飲み干した。
ゴク、ゴク……と、毒が男の喉を通る音が、私の心臓を鷲掴み(わしづかみ)にするようにと締め付ける。
……任務、実行。これで数時間後、この男は確実に死ぬ。
張が器を下ろした瞬間、私は影の『策』を始動させた
「……旦那様。このお汁粉はとても甘いですが、油っこいお食事の後に、そのままでは胃がもたれてしまいますわ」
私は、器を下げるふりをして張に近づき、懐から小さな陶器の小瓶を取り出した。
「旦那様のために、私が故郷の薬草を煎じて作った、胃をスッキリさせる『薬草茶』がございます。……どうか、これを一口だけ。……私、旦那様に、いつまでも元気でいてほしいんです」
最高級の、子供らしい笑顔。
張は、私のその笑顔と「元気でいてほしい」という言葉に、完全に毒気を抜かれたようだった。
黒蓮の暗殺料理人が、解毒剤を持ってきているなど、夢にも思わないだろう。
「ふふ、優しい小娘だ。……どれ」
張は疑うこともなく小瓶を受け取り、中の液体を口に含んだ。
……それは、ただの薬草茶ではない。
お母様から教わった知識と、私がここ一年で極めた解毒の技術を注ぎ込んだ、完璧な『七日殺』の解毒剤だった。
(……これで、この人は死なない。血は吐くかもしれないけれど、命は助かる)
私は、張が解毒剤を飲み干したのを確認すると、器と小瓶を回収し、静かに給仕の列に戻った。
広間の中央では、小鈴が最後の舞を終え、雷鳴のような拍手を受けていた。
――宴が終わり、深夜。
張が突然、激しく血を吐いて倒れたという知らせが、屋敷中に響き渡った。
黒蓮の監視役は、それを見て「任務成功」と判断し、私たちを連れて屋敷を離れた。
彼らは、私が飲ませた『薬草茶』が解毒剤であることにも、張が一命を取り留めることにも、気づいていなかった。
黒蓮の屋敷の部屋に戻った私と小鈴は、泥のように崩れ落ちた。
「……凛花ちゃん。わたし、人殺し、しちゃった……?」
小鈴が、布団に顔を埋め、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
人を魅了するはずの舞で、人を殺した。その事実が、彼女の心を深く傷つけていた。
「……ううん。小鈴ちゃん、あの人は死なないよ」
私は、小鈴の細い体を抱き寄せ、彼女の耳元で静かに囁いた。
「私が、毒の中に解毒剤を仕込んだの。……黒蓮の連中には、調合が甘くて『死に至る量』ではなかったって、言い訳する。……だから、あの人は助かるよ」
「え……?」
小鈴が、涙で濡れた顔を上げた。
「……凛花ちゃん、解毒剤、作れるの……?」
「うん。……私、絶対に誰も殺したくない。お母様のような薬師になりたかった。……だから、私は毒と料理の知識を全部吸収して、いつか必ず、この地獄を出し抜くための『最高の毒(仮死の毒)』を完成させるの」
私の強い意志が、小鈴に伝わるのが分かった。
人を殺すための『影』の私と、標的を魅了する『光』の小鈴。
私たちは、初めての実戦任務で、互いの足りない部分を補い合い、かつ「誰も殺さない」という、完璧な共犯関係を成立させたのだ。
「……うん。……凛花ちゃんが一緒なら、わたし、がんばるっ。……一緒に、生きようね……っ」
私たちは、冷たい石の床の上で、互いの温もりを確かめ合うように、いつまでも手を握り合っていた。
反逆のための準備は、今、始まったばかりだった。




