不意打ちの壁際と、お騒がせな護衛
翌朝、私は月光宮の私室で手際よく荷物をまとめていた。
もともとそれほど多くの私物を持ってきたわけではなかったけれど、いざ引き揚げるとなると、明苺たちから貰ったお菓子の包みや、芙蓉様から賜った細々とした毛筆など、温かい思い出の品がいくつも包みのなかに収まっていく。
「芙蓉様、明苺、静、小蘭。これまでありがとうございました」
荷物を抱えて部屋を出ると、皆が名残惜しそうに、けれど晴れやかな笑顔で見送ってくれた。
華は少しの間、ここに残って芙蓉様のお手伝いをするため、今日のところは見送り役だ。
みんなに何度も手を振り、月光宮の美しい庭園を後にする。
白砂が敷き詰められた外廷の長い回廊を、私は荷物を抱えて歩いていた。
「月光宮での仕事が結構長かったから、たまに料理や差し入れを作りに行ったりはしていたけれど……。あっちの執務室で本格的に仕事をするのは、なんだか随分と久しぶりな気がするわね」
ふと、昨日叡明様が口にしていた「頼みたいこと」という言葉が頭をよぎる。
禁軍まで動かしたあの人が、わざわざ私に個別に頼みたいこととは一体何だろうか。
「……まぁ、考えても始まらないわね。どんな仕事であれ、私はいつも通り、自分の全力を尽くしてこなすだけよ」
小さく一つ頷き、見慣れた執務室の重厚な扉の前に立つ。
コンコン、と軽く叩いてから、私は「失礼します」と扉を開けた。
「叡明様、高星様。ただいま戻りました」
「おお、凛花。待っていたぞ」
机に山積みにされた書類と格闘していた叡明様が、私の姿を見るなりパッと顔を輝かせて顔を上げた。
その傍らに控えていた高星様が、音もなく私の前へと歩み寄ってくる。
「お帰りなさいませ、凛花殿。長旅の疲れも見せず、素晴らしい手際ですね。さあ、その重いお荷物は私がお預かりしましょう。先に、あなたの部屋へ運んでおきます」
「あ、ありがとうございます、高星様。お手数をおかけします」
高星様は私の荷物をひょいと受け取ると、衣服の裾を翻して、実に淀みのない足取りで部屋を出て行った。
相変わらず、気が利く上に無駄のない動きだ。
部屋の中に、私と叡明様の二人だけが残される。
叡明様は机の上の書類を脇へ退けると、椅子の背もたれに体を預け、真面目な顔つきで私を見つめた。
「さて、凛花。昨日話していた、お前に頼みたいことについてだが」
「はい、なんでしょう? 私にできることであれば、何なりと」
「うむ。実はな、上級妃の一人である雪華妃から、『凛花と直接会って話がしたい』と直々に要望があってな」
「え? 雪華様が、私に……ですか?」
私は思わず目を丸くした。
雪華妃といえば、あの広大な水晶宮の主であり、確か香霞の里の騒乱の際、後宮側の「軍師」の代行として裏で色々と采配を振るってくれていたと聞いている。
「ああ、そうだ。お前がこれまで後宮内で数々の問題を解決してきたこと、そして今回の里での立ち回りを耳にして、深く興味を持たれたらしい」
「あの御方は非常に聡明で、一筋縄ではいかない人物だが……お前に悪意を持っているわけではない。純粋に会いたいそうだ」
「なるほど……。何を根掘り葉掘り聞かれるのやらと、少し緊張しますが、私の知識が何かのお役に立てるのであれば喜んで。お礼を兼ねて、しっかりとご挨拶に伺います」
「頼んだぞ。水晶宮へはお前が明日伺うということで、すでに話を通してある。だから、今日は無理をせず、ゆっくり荷解きでもして体を休めるといい。……あ、ただし、今日の夕食は私の分も頼むぞ。お前の料理が恋しくてたまらなかったんだ」
「ふふ、承知いたしました。腕によりをかけて作らせていただきますね」
私が丁寧に頭を下げると、用件は済んだはずだった。
しかし、叡明様はなぜか席を立つと、どこか妙に据わったような、言葉にできない複雑な顔つきで私の方へと一歩、また一歩と近づいてきた。
「……?叡明様、どうされましたか?」
「ところで、凛花……」
低い声で名前を呼ばれ、そのただ事ではない雰囲気に、私は本能的に「危ない」と察知して、ずい、と一歩後ろへ下がった。
しかし、叡明様は逃がさないと言わんばかりに、さらに距離を詰めてくる。
「おい、なぜ下がる」
「いや、だって……なんだか目が怖いですよ、叡明様」
「下がれば追うに決まっているだろう」
「ちょっ、お待ちくだ――」
たじろぎながら後ずさりした私の背中に、コツンと硬い感触が当たった。
後ろは壁だ。完全に逃げ場をなくした私を、叡明様はすぐ目の前で遮るようにして、壁に片手を突いた。
世に言う「壁ドン」というやつだろうか。
(ひっ……、背筋がぞわぞわする……!)
完全に至近距離で閉じ込められ、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
叡明様の綺麗な顔が、すぐ目の前にある。
「逃げ場はないな、凛花?」
「……はい、見ての通り完全に詰んでいますね。それで、一体何のお話でしょうか。お顔が非常に近いのですが」
私が精一杯の冷静さを装って言うと、叡明様は眉間を深く寄せ、少し子供のように拗ねたような、恨みがましい目を向けた。
「お前、香霞の里へ独断で向かうとき、あちこちに置き手紙を残していっただろう」
「あ、はい。残しました。明苺とお父様に。あの時は本当に必死でしたから、突然いなくなる無礼を詫びるために……」
「ならば、なぜだ」
「はい?」
「なぜ、私宛ての手紙だけ、一通も残していかなかった!?」
「………………は?」
あまりにも想定外すぎる追求に、私の思考が完全に停止した。
何を根に持っているのだろうか。
「いや、だって……あれは私の家族の、極めて個人的な事情のことでしたので。叡明様を巻き込むわけにはいかないと思いまして……」
「結果的に禁軍が出動する大騒動になったがな?」
叡明様がさらに顔を近づけてくる。
その綺麗な瞳に、私の困惑しきった顔が映り込んでいた。
「あはは……。結果的に、本当にそうなっちゃいましたね……」
私は引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。
(まさか、あの場で真っ先に禁軍を率いて現れたのが叡明様だとは思わなかったけれど……。というか、よく考えたら禁軍をあんな風に私兵みたいに動かせるこの人、本当は一体何者なの?いや、ダメ。知らない方が絶対に身のため。深く考えるのはやめよう)
私の綺麗に聞き流すことに全神経を注いでいるのを見透かしたのか、叡明様はふっと表情を和らげ、どこか切なげな、真剣な眼差しに変わった。
「凛花。そんなに私は……いや、俺はお前にとって、頼りない存在か?」
「そ、そんなことはないですけど……」
あまりの真面目なトーンに、胸がどきりと鳴る。
(か、顔が近すぎる!近すぎて心臓に悪い!……こういう時、お父様なら『迷わず蹴りを入れろ』って言うのかしら?)
そんな物騒なことを考えている私に向かって、叡明様はさらに声を潜め、熱を帯びた声で囁いた。
「丁度いい、お前にずっと話しておきたいことがあったんだ。いいか、凛花。私のことについて――」
「凛花様ーーーーーっ!!忘れ物っすーーーーー!!」
凄まじい大声と共に、執務室の扉が勢いよく、バァン!と大きな音を立てて蹴り開けられた。
入ってきたのは、両手に何やら包みを持った華だ。
華は部屋の中を見るなり、ガタガタと震えている私と、私を壁に追い詰めている叡明様の構図を一瞬で見抜いた。その目の色が変わる。
「ちょっと待ったぁぁぁーーー!!」
ドタドタと恐ろしい勢いで駆け込んできた華は、なんと叡明様の胸元をグイと押し除け、私と叡明様の細い隙間に、ずいっと自分の体を力ずくで割り込ませた。
完全に叡明様を弾き飛ばす形だ。
「ちょっと叡明様!昼間っから何やってるんすか、ダメっす!不埒っす!そもそも、凛花様に物理的な手を出すって言うなら、このあーしの出番っすよ!凛花様の純潔はあーしが守るっす!」
「い、いや待て!華!違う、そうじゃなくてだな!」
弾き飛ばされた叡明様が、赤面しながら大慌てで両手を振る。
しかし、華は腰に手を当てて、完全に「不審者」を見るような冷ややかな疑いの目を向けていた。
「あんなに顔を近づけて、一体何する気だったんすかー?あーしの鋭い目は誤魔化せないっすよ?」
「いや……その、なんだ?ほんの少し、これからの仕事についての深い『お話』をしていただけでだな……」
目を泳がせる叡明様の後ろで、私は華の服の袖をそっと引っ張り、深々とため息をついた。
「華……本当に助かったわ。絶妙な折に来てくれたわ」
「へへん、忘れ物を届けに来たら、まさかの大事件っす!あーしが来なかったら危うく凛花様がオオカミに食べられるところだったっす!」
そんな風に大騒ぎしているところへ、タイミング良く荷物を置き終えた高星様が戻ってきた。
高星様は部屋のなかの、妙に赤くなっている叡明様と、仁王立ちする華、そして壁際で胸を撫で下ろしている私を見て、一瞬で状況を察したようだった。
「……これは一体、何事でしょうか」
高星様が冷ややかな声を出すと、華が待ってましたとばかりに彼を指差した。
「高星様、聞いてくださいっす!叡明様が凛花様に襲い掛かろうとしてたっす!昼間っから、執務室で、壁にドカンと!」
「高星!違うぞ、濡れ衣だ!私はただ、手紙の件について少し話をしていただけで……!」
必死に弁明する叡明様を見て、高星様は「はぁ……」と、本日一番の深い、重いため息をつきながら額に手を当てた。
「分かりました、静かにしてください。……ひとまず、凛花殿。お部屋に荷物を置いてきました。頼みごとの件についてお話が終わっていましたら、あなたは荷解きに自室へ行ってください」
「ありがとうございます、高星様!それでは、お話は完全に終わりましたので、私はこれにて失礼して、荷解きに行ってまいります!」
私はこれ以上ないほど素早く綺麗な一礼を捧げると、叡明様が「あ、待て凛花!まだ話が――」と言うのを完全に無視して、足早に執務室を飛び出した。
「あーしも、任務完了したんで戻りますね!叡明様、お仕事頑張ってくださいっすー!」
華もケラケラと笑いながら私を追いかけて、部屋を出ていく。
扉が閉まり、廊下を走る二人の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、執務室に残された高星様は、冷徹な目で自分の主を見つめた。
「こういったことは久しぶりですが……叡明様。あなたは一体、何をやっているのですか」
「……そろそろ、あいつに俺の本当の立場をしっかりと話すべきだと思ってな。あの里の一件で、あいつを失うかもしれない恐怖を味わってから、どうにも気持ちが焦ってしまう自分がいるんだ」
叡明様はドサリと椅子に腰を下ろし、頭を抱えてため息をついた。
「梟仙殿という大きな壁があるだけでなく、今度はあの華殿までが凛花殿の強固な護衛として居座るとは。前途多難ですね」
高星様は呆れたように言っていたが、その口元には、どこか楽しげな笑みが浮かんでいる。
「本当に、登り甲斐のある高い山だな……」
「ええ。ですが叡明様、私としては、あなたがその山を早く登り切ってくれないと困るのです。……何せ、私は早く、あなたの『お子』を抱きたいのですから」
高星様が真顔で放った凄まじい爆弾発言に、叡明様は一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くした。
しかし、すぐに観念したように苦笑いを浮かべ、自嘲気味に呟く。
「……ああ、分かっている。期待に応えられるよう、精一杯頑張るさ」
夕暮れが近づく執務室で、主従の温かくもどこか呆れたような会話が、静かに響いていた。




