すれ違う熱量と、夜更けの密談
その日の夜。
叡明の執務室に併設された小さな調理場で、凛花は一人、静かに鍋をお玉でかき混ぜていた。
「うーん……今夜は、少しお心を落ち着かせる作用のある生薬を多めに使おうかな。その方がきっと、今の叡明様にはいいはずだわ」
トントンと小気味よい音を立てて薬味を刻みながら、凛花は昼間に起きた出来事を思い出していた。
急に顔を近づけてきて、真剣な眼差しで何かを言いかけ、そのまま華の乱入によって大慌てで取り乱していた若き皇子の姿。
いつも冷静沈着で、何があっても動じないあの叡明が、あそこまで余裕をなくして支離滅裂になるなど、普段の彼からはおよそ想像もつかないことだった。
「……きっと、香霞の里の件で、私には見せないようにしていても、多大なる心労を抱え込んでいらっしゃるのね。手紙のことであんなに怒るなんて、よほど心に余裕がないんだわ」
凛花はすっかり納得がいったように一人で深く頷くと、出来上がった温かい料理をお盆に並べ、隣の執務室へと運んでいった。
「叡明様、高星様。夕食のご用意ができました」
お盆を机に置くと、ふわっと優しい出汁の香りと、ほんの少しの薬草の香りが部屋に広がる。
机に積み上がった書類に頭を悩ませていた叡明は、料理の器を見るなり、ふっと表情を和らげた。
「おお、美味そうだな。……いただきます」
手際よく箸を動かし、料理を口へと運ぶ叡明。
その隣で、高星がいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべて凛花へと労いの言葉をかける。
「いつもながら見事な手際ですね、凛花殿。里から戻られたばかりだというのに、こうしてすぐに美味しい食事を用意していただき、本当に頭が下がる思いです」
「いいえ、これが私の本来の仕事ですから」
凛花が淡々と答えているうちに、叡明はあっという間に料理を平らげてしまった。
心なしか、その顔色も少し良くなったように見える。
空になった器を見つめながら、叡明は小さく咳払いをすると、どこかバツが悪そうに、しかし真剣な目で凛花を見上げた。
「……その、凛花。さっきは、昼間の件だ。すまなかったな。少し、感情が高ぶってしまっていた」
「いえ、気にしないでください。それよりも……」
おもむろに、凛花が叡明のすぐ目の前へと、一歩、距離を詰めた。
叡明が「お、おい?」と驚いて少し身体を引くのも構わず、凛花は大真面目な、極めて真剣な顔で彼の顔を間近から覗き込んだ。
「叡明様、やはりかなりお疲れのようです。今夜から、寝室のお香の調合をリラックス効果の高いものに変えましょう。……昼間のあの、冷静さを欠いた取り乱し方、どなたの目から見ても疲労が限界まで溜まっている証拠です。よろしければ、今ここで私の診脈を受けられますか?」
至近距離で真っ直ぐに自分を見つめる、純粋無垢な薬師の瞳。
――そこには、微塵の恋慕も、昼間の壁際に追い詰められた強引な迫られ方に対する照れも存在していなかった。
あるのは、ただ「重症の患者」を心配する、純粋な薬師としての視線だけだった。
叡明は、そのまま静かに、どこか遠い世界を見るような目で固まった。
完全に魂が抜けたような主人の様子に、隣で書類をまとめていた高星がぷっと吹き出し、眼鏡の位置を直しながら意地悪そうにクスクスと笑い声を上げる。
「くすくす……なるほど。叡明様のその『病』ばかりは、いくら凛花殿が特製の薬を調合したところで、一生かかっても治りそうにありませんね」
「高星……っ!余計なことを言うな!」
「いいえ、言わせていただきますとも。これほど重症で前途多難となると……私が楽しみにしている『次代の小さなお方』をこの腕に抱ける日は、随分と遠そうですねぇ」
「なっ……!?お前、それは今関係ないだろう!」
叡明は一瞬で顔を真っ赤に染め上げ、机を叩いて大声で抗議した。
(次代の小さなお方……?叡明様が新しくお雇いになる方かしら?)
主従の奇妙なやり取りを聞きながら、凛花は心の中で(ああ、やっぱりお心が酷く乱れて不安定だわ。重症ね)と確信し、密かに哀れみの目を向ける。
「……コホン!それより、明日のことだ、明日のこと!」
叡明は爆発しそうな顔を無理やり強引に咳払いをして、話を切り替えた。
「明日は予定通り、雪華妃のいる水晶宮へ行ってもらう。あのお方は、香霞の里で裏から軍師の代わりに禁軍を指揮するほど、並外れて聡明な女性だ。一筋縄ではいかない御方だし、何よりお前に強い興味を持っている。何を仕掛けてくるか分からんから、くれぐれも気をつけてくれ」
「雪華妃様は非常に優雅で冷静沈着な方ですが……」
高星が手元の資料をまとめながら、少し声を潜めて補足する。
「その水晶宮にはここ最近、上級妃の『瑠璃妃』も頻繁に出入りしているという噂があります」
「え、上級妃が、ですか?」
凛花はうーんと小さく唸り、先日の園遊会での出来事を思い返した。
きらびやかな妃たちの並びの端にいた、髪を左右に高く結い上げた小さな少女の姿が脳裏に浮かぶ。
「あ、あの瑠璃妃様ですか?あの、妙に背が小さくて、子供のような……」
「ああ、星蘭宮にいる上級妃だな。まだ直接言葉を交わしたことはないだろう?」
叡明の問いに、凛花は「そうですね、園遊会で遠目から拝見したくらいです」と頷いた。
「かなり我が儘で、小生意気なところがある御方なんだが……」
「まあ、明日の段階で直接お会いすることはないでしょうが、雪華妃様とのお話の中で、もしかしたらそのお名前が出てくるかもしれません。念のため、頭の片隅に置いておいてください」
高星の丁寧な忠告に、凛花は「分かりました。失礼のないよう、きちんとお話を聞いてきますね」と殊勝に頭を下げた。
食事の片付けを綺麗に終えると、凛花は「それでは、明日に備えて失礼します。叡明様、本当にお大事になさってくださいね」と最後まで患者を労う言葉を残し、執務室を退室した。
凛花が自分の部屋へ戻り、ふぅと息を吐いた途端。
パタンと小気味よい音を立てて扉が開き、お隣の部屋から華がニヤニヤと顔を覗かせて滑り込んできた。
「おかえりなさーい、凛花様!いや〜、どうだったんすか?夜の執務室で、叡明様と二人きりの秘密の逢瀬!また昼間みたいに襲われそうにならなかったっすか!?」
「変な邪推をしないで。高星様もずっと一緒にいらっしゃったわ。……それに、叡明様はただ、精神的に酷くお疲れなだけよ。それより華、なぜこちらに?」
「ちょっと、着替え用の服を持っていこうかと思って!あ、それとこれ……」
華は懐から、あの『花の雫』の小瓶を大切そうに取り出すと、頬にすり寄せるようにしてニヤリと笑った。
「さっそく昨日の夜、寝る前に使ってみたんすけど、マジで今朝お肌がぷるっぷるっす!桂花様たちと作った最高のお守り、毎日ガシガシ使わせてもらうっすね!」
華は嬉しそうに小瓶を掲げてみせる。
「ふふ、よかった。……私、明日は雪華妃様のいらっしゃる水晶宮へ行くことになったわ」
「お、別の上級妃様のところへ乗り込むわけっすね!あーしもついていきたいところっすけど、今は芙蓉様のところで仕事だしなぁ。……凛花様、もしその水晶宮で変な奴に絡まれたら、あーし直伝の『必殺・目潰し』でも容赦なく繰り出すっすよ!」
小さな拳をグッと握って物騒な提案をしてくる新しい助手に、凛花は呆れたように肩をすくめた。
「そんな野蛮なこと、宮の中で絶対にしないわよ」
けれど、そう言い返す凛花の口元には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
大切な親友を失った心の傷はまだ消えない。
けれど、こうして軽口を叩き合える新しい相棒の温かさが、今の凛花には心地よかった。
翌朝。
凛花はいつものように完璧に身なりを整えると、清々しい朝の光を浴びながら、後宮の中でもひときわ知的な気品を放つ、美しい水晶宮へと向かって歩みを進めるのだった。




