金木犀の誓いと、分かたれた簪
後宮の外廷の敷地内、その深く静まり返った一角に、新しく二つの小さな墓石が並んで建てられていた。
香霞の里で散った、桂花と白英。
かつて理不尽な運命によって引き裂かれかけた二人の魂は、今、この穏やかな地でようやく隣り合って眠りについている。
柔らかな木漏れ日が降り注ぐ中、凛花はその墓の前に静かに歩み寄った。
彼女の隣には、すべてを見守るように佇む叡明がおり、その後ろには華や高星、そして月光宮の仲間たちである明苺、静、小蘭がそっと控えている。
凛花は腕に抱えていた、桂花の好きだった色鮮やかな花を墓前に手向けた。
そして、市井の屋台で見つけた、あの小さな丸い揚げ菓子を小皿に乗せて丁寧に供える。
「……桂花、白英さん。やっと、二人一緒になれたね」
凛花はそっと瞳を閉じ、胸の前で両手を合わせた。
耳を澄ませば、木々の葉が擦れ合う優しい音が、まるで二人の囁き声のように聞こえてくる。
(桂花、あなたの遺してくれた手紙、ちゃんと読んだよ。……もう、私の心は大丈夫。私は自分の足で歩いていける。だから安心して、白英さんと一緒にゆっくり休んでね。あなたが私に託してくれた夢――大切な人たちを守りたいというその願いは、私が絶対にこの手で叶えてみせるから)
まぶたの裏に浮かぶのは、涙の記憶ではない。
星空の下で誇り高く微笑んでいた、美しく強い親友の姿だった。
ゆっくりと目を開けた凛花の瞳には、もう凍りついたような虚無は微塵もなかった。
そこにあるのは、迷いのない、前を向いた強く澄んだ光だ。
隣に立つ叡明が、そっと凛花の横顔を覗き込む。
かつて絶望に凍りついていた少女の心が、本当の意味で救われ、再生したことをその確かな眼差しから察し、叡明の唇にふっと優しい笑みが浮かんだ。
後ろで見守る華たちも、静かに涙を拭いながら、小さく頷き合っていた。
翌日、月光宮には、窓から明るい朝の光が燦々と差し込んでいた。
香霞の里から戻り、いくつかの波乱を経て、今日からまた凛花の毒味役としての仕事が再開される。
「芙蓉様、朝のお食事をお持ちいたしました。これより毒見を行います」
凛花はいつも通り、仕立ての良い衣服に身を包み、背筋をすっと伸ばして芙蓉妃の前に控えていた。
明苺、静、小蘭の三人、そして新しい臨時女官となった華が、固唾を呑んでその様子を後ろから見守る。
部屋の空気は、どこか張り詰めたような緊張感に包まれていた。
凛花は箸を取り、小皿に分けられたスープを一口、静かに口に含んだ。
咀嚼し、喉へと滑らせる。
ほんの一瞬の静寂の後、凛花はふっと目元を緩め、パッと周囲を明るく照らすような、温かい笑顔を浮かべた。
「ふふ、今日のスープはいつもより、ちょっとお塩が控えめですね。芙蓉様の体調を気遣った、素晴らしいお味付けです」
その瞬間、後ろにいた明苺たちの瞳から、堰を切ったように涙があふれ出した。
「凛花……!おかえり、おかえりぃぃぃ!」
「本当によかった……!もう心配させないでよ……っ!」
明苺と小蘭が泣きじゃくりながら凛花に一斉に飛びつき、静も目元を真っ赤にしながらその肩を抱きしめる。
「ただいま戻りました、みんな。心配をかけてごめんなさい。もう、私は大丈夫」
凛花は作り物ではない、心からの苦笑いを浮かべながら、愛おしい仲間たちの抱擁を優しく抱き返した。
「仮面」ではなく、心からの言葉と笑顔を返してくれた。
その事実が、彼女たちには何よりも嬉しかったのだ。
部屋の奥では、芙蓉様がその様子を慈しむような目で見つめ、深く安堵したように優しく微笑んでいた。
夕方になり、留守中に溜まっていた仕事や薬草の仕分けが一通り片付いた。
明苺たちは「今日はここまでにして、早く休もう!」と気を利かせ、華に凛花のことを託して先に部屋を出て行った。
西日が赤々と差し込む夕暮れ。
凛花は、片付けを終えて一息ついている華の前に歩み寄り、静かに声をかけた。
「華。あなたに、少し真面目なお話があるの」
「え、なんすか改まっちゃって?あーし、何かやらかしましたっけ?」
華はいつもの軽い調子で首を傾げ、大きな目を瞬かせる。
凛花は一歩近づき、華の目をまっすぐに見つめた。
「桂花が遺してくれた手紙にね、私への最後のお願いが書かれていたの。……里を狂わせ、多くの人を苦しめたあの『幻夢香』を、この世から完全に無毒化する薬を作ってほしい、って」
華の表情から、一瞬だけいつものお調子者の空気が消え、真剣な光が宿る。
「それは、ものすごく長くて、険しくて、もしかしたら一生答えが出ないかもしれないくらい、難しい道のりになると思う。私一人では、途中で挫けてしまうかもしれない。……だからね、華」
凛花は一呼吸置き、そっと華の手を握りしめた。
「当面の『臨時助手』じゃなくて……これからもずっと私の隣で、私の一番大切な相棒として、一緒に戦ってくれない?」
その言葉を聞いた瞬間、華は驚きで大きく目を見開いた。
しかし、すぐにその瞳にじわじわと涙が溜まり、次の瞬間にはボロボロと大粒の嬉し涙となって頬を伝い落ちた。
華は鼻をすすりながら、満面の笑みを浮かべて自分の胸をドンと叩く。
「……もちろんですっ……!あーし、凛花様の助手として、一生どこまででもついていくっす!桂花様の夢、あーしら二人で絶対に、絶対に叶えましょう!」
「ふふ、ありがとう、華。心強いわ」
凛花は微笑み、懐から一本の美しい簪を取り出した。細工の施された、素朴ながらも温かみのある簪だ。
「おぉ!綺麗な簪っすね!」
「これね、桂花と旅の途中で最後に買った簪なの。お互いに色違いのものを交換して持っていたの。桂花が最期まで身に着けていたものを、お父様から受け取って……。私、いつもは髪を飾ったりしないけれどつけるわ……あなたには、桂花が持っていた簪を着けていてほしいの」
凛花はそう言うと、華の手のひらにその簪をそっと乗せた。
「え、あーしにくれるんすか!?」
「ええ。二人で一緒に夢を追う、その証に。着けてみて?」
華は嬉しそうに涙を拭うと、さっそく自分の髪にその簪を挿した。
夕日に照らされた簪が、華の黒髪の中で誇らしげにきらめく。
「どうっすか?似合ってます?」
「ええ、よく似合っているわ。華は華やかだから、お洒落なものが本当に映えるわね」
「いやー、あーし実はお洒落命なんすよね!これでモチベーションも爆上がりっす!」
華はへへへと照れくさそうに笑った。
そんな華の姿を愛おしそうに見つめていた凛花だったが、ふと目を細め、少しだけ声を潜めて言った。
「……それとね、華。あなた、たぶん何か大きな隠し事をしてるわよね?」
「うっ……!な、なんのことっすかねぇ~?」
華の肩がピクリと跳ね、あからさまに視線を泳がせる。
「誤魔化しても駄目よ。里での戦いのときもそうだったけれど、時折見せるあなたの身のこなし、普通じゃないもの。あの、一瞬だけ目が合うときの、冷徹で鋭い目つきなんて、まるでどこかの暗殺――」
「わーーー!あーし、なんか急にめちゃくちゃ小腹が空いてきたかもっす!凛花様!なんか美味しいもの食べに行きましょう、そうしましょう!」
華は凛花の言葉を遮るように大声を出すと、脱兎の如き勢いで調薬室の扉を開け、廊下へと走り出した。
「あ、待ちなさい! 華、逃げるなんてやっぱり怪しいわ!いつかちゃんと白状してもらうんだからね!」
「あははは!聞こえないっすーーー!」
凛花は「はー……」と呆れたように額に手を当てながらも、その顔には楽しげな笑みが溢れていた。
彼女は元気よく走り去った新しい相棒の後を追って、一歩を駆け出した。
二人が賑やかに廊下へ飛び出したところへ、ちょうど手続きを終えた高星を連れて、叡明が歩いてやってきた。
逃げる華と、それを笑いながら追いかける凛花の姿を見て、高星は少し驚いたように目を丸くし、叡明は満足そうに口元を綻ばせた。
廊下ですれ違いざま、凛花は叡明に向けて、胸のすくような、どこまでも晴れやかな笑顔を見せる。
その姿を見送った叡明は、深く、心地のよい溜め息をついた。
「フッ……本当に、いい顔になったな、凛花」
「ええ。もうあの危うい『仮面』は必要ないようです。これからの彼女たちは、きっと我々の想像を超えるものを創り出すでしょう」
高星もまた、優しく頷いた。
夕暮れの後宮。
窓の外を見渡せば、桂花が大好きだった金木犀の木が、夕風に吹かれて黄金色の花びらを優しく揺らしている。
大切な親友を亡くした悲しみは、決して消えることはない。
ふとした瞬間に、胸がちくりと痛むこともあるだろう。
けれど、凛花はその傷跡すらも自らの強さに変えた。
手の中にある温かい記憶と、背中を押してくれる手紙の言葉。
そして、新しく隣に立つ最高の相棒と、行く道を支えてくれる大切な仲間たちと共に。
凛花は今、果てなき未来へ向かって、力強くその第一歩を踏み出したのだった。




