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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
香霞の里編:氷解

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金木犀の涙、解ける氷

凛花リンカ様……」


 静まり返った部屋に、ハナの消え入りそうな声が優しく響いた。


 その声に、冷たい床の上で手紙を握りしめていた凛花はハッとしたように身体を強張らせ、背中に隠すようにして手紙を必死に隠そうとした。


 しかし、あまりにも指先がガタガタと激しく震えてうまく動かず、封筒がカサカサと虚しい音を立てるばかりだった。


 その痛々しい様子をすべて包み込むように、華はあえていつも通りの、無理に作ったわけではない、普段通りの明るいトーンで声をかけた。


 その手には、叡明エイメイから預かってきた特大の外出許可の木札が握られている。


「凛花様!実はさっき、叡明様から特別な外出許可の木札をもらったんすよ!明日の朝から、あーしと一緒に市井しせいの屋台へお出かけするっす!美味しいものをたくさん食べに行くっすよ!」

「え……?市井へ……?でも、仕事はどうするの……? まだ調薬も、毒見も残っているわ……」


 突然の提案に、凛花は困惑したように声を揺らした。


 それでも仕事に戻ろうとする頑なな姿勢に、華は優しく首を振る。


「仕事なんて、明日はいっさいナシっす! 叡明様も高星コウセイ様も、みんなして『たまには羽を伸ばしてこい』って、笑顔で言ってくれたんすから。だから、明日だけはあーしに付き合ってください」


 凛花は少しの間、震える手元を見つめて考え込んでいたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「……そう。それなら、お言葉に甘えて、行かないといけないわね」

「決まりっすね!それじゃあ、今夜はもう遅いから、おやすみなさいっす!」

「ええ……おやすみなさい、華」


 華が部屋を出ていくと、凛花は再び静寂に包まれた。


 翌朝、凛花はいつも通り早くに目覚め、お出かけの支度を済ませていた。


 ふと机の上に目をやると、昨晩握りしめていた桂花ケイカの手紙がそこにある。


 凛花は少し躊躇したが、なぜかこの手紙を持っていかなければいけない、そんな不思議な気がして、そっと衣服の懐へと滑り込ませた。


 部屋から一歩外へ出ると、驚くほどの晴天だった。雲一つない青空を見上げて、凛花は「市井ね……」とぽつり、と呟いた。


 その時、すぐ隣の部屋の扉が勢いよく開いた。


「凛花様!おはようございますっす!うわー、めちゃくちゃ早いっすね!」


 元気いっぱいに挨拶をして飛び出してきた華の姿に、凛花の凍りついた顔がほんの少しだけ和らぐ。


「おはよう、華。ほら、お出かけには丁度いい天気よ」

「おー!確かに最高の天気っすね!あーしの食欲も、いつも以上に湧いてきたっすわ!」


 二人はそのまま後宮の重苦しい門を出て、活気あふれる市井の屋台街へと向かった。


 一歩街へ足を踏み入れると、そこは別世界だった。行き交う人々の活気に満ちた声、さまざまな料理から立ち上る湯気と香ばしい匂い。


 華は「うわー! 美味しそうな匂いがたまらんっす!」と声を弾ませ、凛花の手をしっかりと引いてあちこちの屋台を巡り歩いた。


 華が勧めてくれる串焼きや甘いお菓子を、凛花も「本当ね、美味しいわ」と、いつもの完璧な笑顔で口にする。


 しかし、その瞳はどこか遠くの景色を見つめているようだった。


 凛花は、懐に仕舞い込んだ手紙の重みを、服の上からずっと、じっと感じ続けていたのだ。


 そんな中、ふと立ち寄った路地裏の素朴な屋台の前で、二人の足が止まった。


 そこで売られていたのは、小さな丸い揚げ菓子だった。


 華が「あ、これ……」と小さく呟き、凛花もその菓子を見つめたまま硬直する。


 それは、かつて桂花が「これ大好きなんだよね!」と目を輝かせて大好物だと言っていた、あの懐かしい菓子だった。


 二度と会えない親友の弾けた笑顔が、賑やかな街の景色の中で、鮮明に脳裏へとよみがえる。


 凛花は、ほんの一瞬、世界の時が止まったかのような感覚に陥った。


 華は何も言わずにその菓子を買い求めると、温かい包みを凛花の手へと手渡した。


「凛花様!これどーぞ。いやー、本当にいい匂いっすね!あ、ちょっとこれに合う冷たい飲み物も用意してくるんで、どこかで座って待っててくださいっす!」


 華はそう言って、凛花に考える隙を与えないように、足早に人混みの向こうへと走っていってしまった。


 凛花は両手に残る菓子のぬくもりを感じながら、一人で静かに座れる場所を探して歩き出した。


 その時、優しく湿った風と共に、どこか懐かしい金木犀の香りが、ふわりと鼻腔を通り抜けた。


「この香り……」


 凛花は引き寄せられるように、匂いの元へとゆっくり歩いていく。


 人混みを離れ、辿り着いたのは、街の喧騒から少し外れた場所にひっそりと佇む、大きな金木犀の木が立っている場所だった。


 木陰には古びた木製の腰掛けがあり、凛花はそこに静かに腰を掛けた。


 見上げれば、黄金色の小さな花びらが、陽光を浴びて美しく揺れている。


「金木犀の、いい香り。……桂花、ここに私を呼んだのは、あなたなのね」


 凛花はそう呟き、手に持った小さな丸い揚げ菓子を、そっと口に含んだ。


 サクッとした歯触りのあと、素朴で優しい甘さが口いっぱいに広がる。


 それを咀嚼するうちに、後宮までの長い旅路の記憶、桂花と共に笑いながら化粧道具を作ったこと、星霞祭の夜に手を繋いで歩いた思い出が、堰を切ったように次々とよみがえってきた。


 不思議だった。


 ただの菓子なのに、どうしても忘れちゃいけない、大切な味がする。


 懐かしくて優しいその味を噛み締めるほどに、喉の奥がギューッと熱く、痛いほどに締め付けられていく。


 もう、限界だった。


 これ以上、自分の心に嘘をつき続けることはできなかった。


 凛花は震える手で懐から、あの「桂花の手紙」を取り出した。封を切り、中に収められていた紙を広げると、そこには見慣れた、少し癖のある親友の文字が並んでいた。


----------


『凛花へ。


 この手紙を読んでいるってことは、私は香霞の里でちゃんと頑張れたってことだよね。


 それに、凛花も家族ときっと無事に再会できているはず。


 本当によかった。おめでとう。


 それから……まずは、ごめんね。


 きっと今の私は、凛花に一番辛い役回りを押し付けちゃってると思う。


 私のせいで、またその綺麗な顔を曇らせて、泣かせちゃってたら本当にごめん。


 あ、そうそう。


 もう私が『秋英』だってことも、きっと気づいてるよね?


 里に着いたらどこかのタイミングでちゃんと打ち明けようと思ってたんだけど……驚かせちゃったかな。


 黙っていて悪かったよ。


 凛花とは、後宮に行くまでの旅からの付き合いだから、もう何年になるっけ?


 後宮でまた再会できたときは本当に嬉しかったなぁ。


 一緒に化粧道具を作ったり、星霞祭で遊んだり、あなたと過ごした時間は、私の人生で一番楽しいことばかりだったよ。


 あはは、書きたい思い出が多すぎて、何から書けばいいか迷っちゃうな。


 そうだ。


 里での問題が全部片付いたら、凛花に一つだけ、どうしてもお願いしたいことがあるの。


 私にとっては、もう『届かない夢』になっちゃったから……私の大好きな親友に、託させてほしい。


 私の一族に伝わる『幻夢香』の作り方を、この手紙の最後に書き残しておきます。


 これをもとに恐ろしい毒が作られているのは、薬師の凛花ならもう知っているよね?


 凛花、お願い。あなたに、その毒を無毒化してほしいの。


 悲しい道具に変えられてしまった私の一族の技を、人を救うためのものに変えられるのは、世界中であなたしかいない。


 凛花なら、これからもっとたくさんの人を救っていけるよ。


 私が保証する。だって、私は誰よりもあなたの腕を知っているし、世界で一番の親友だからね。


 私の大好きな、自慢の薬師へ。


 これからの未来を、頼んだよ!


 桂花より』


----------


 手紙の途中から、視界が急激に滲んでいき、文字が歪んで見えなくなった。


「……あ……、う、くすん……」


 ポロポロと、大粒の涙が目からこぼれ落ちて、手に持ったお菓子を、手紙の紙面を濡らしていく。


 一度流れた涙は、もう止まらなかった。


 これまで頑なに張り巡らせていた分厚い氷の仮面が、音を立てて完全に消え去っていく。


 凛花は金木犀の木の下で、ついに子供のように顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。


「寂しい……寂しいよ、桂花……っ!どうして、どうして私を置いていっちゃったの……!私、あなたにまだ何も返せてない……。ありがとうって、ちゃんと言えてないのに……っ!!」


 後宮では決して見せられなかった、ただの「大切な親友を亡くして、深く傷ついた一人の女の子」の剥き出しの感情が、激しい号泣となって溢れ出す。


 黄金色の金木犀の花びらが、涙を流し続ける凛花の肩へと、静かに、優しく舞い落ちていく。


 その光景のなか、耳元のすぐ近くで、聞き慣れた、あの優しくて少し悪戯っぽい親友の声が、ふわりと聞こえた気がした。


『――凛花、どうか悲しみを乗り越えて。その向こうに、きっと明るい未来あすが訪れるから』


「桂花……?っ、う、あ、くすん……っ」


 ハッとして顔を上げても、そこには黄金色の花びらが舞うばかりで、親友の姿はどこにもない。


 けれど、その声は確かに、凛花の凍りついた心の最深部をじんわりと溶かしていった。


 そこへ、両手に冷たい飲み物を持った華が戻ってきた。


 子供のように激しく泣きじゃくる凛花の姿を見て、華は持っていたものをそっと地面に置いた。


 驚くことも、慌てることもない。


 ただ、華の目からも、堪えきれない涙がポロポロと溢れ出していた。


 華は静かに歩み寄ると、凛花の隣に腰掛け、その細い肩を横からギュッと、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。


「……凛花様」


 華の温もりが、ガタガタと震える凛花の身体に伝わっていく。


「痛かったっすよね。寂しかったっすよね……。あーしの前では、もう無理して笑わなくていいんすよ。あーしも……桂花がいなくて、めちゃくちゃ寂しいっす……っ」


 同じ痛みを分け合う華の腕の中で、凛花は再び涙を溢れさせた。


 けれど、その涙はもう冷たい氷ではなく、温かい血の通った涙だった。


 長い、長い時間が経ち、ようやく凛花の呼吸が落ち着いてきた頃。


 凛花は泣き腫らした目で、手紙をもう一度愛おしそうに見つめると、折り畳んで胸の奥へとそっと仕舞い込んだ。


 その瞳には、もう凍りついた虚無などはなく、いつもの優しくて強い、凛とした光が戻っていた。


 凛花は涙を拭い、華の腕からそっと身体を離すと、少し照れくさそうに微笑んだ。


「……華。ありがとう。私、ここで踏みとどまった今日までの自分から、また、一歩進まないとね。桂花が、未来を頼んだって言ってくれたから」

「……っ、はいっす……!」

「ふふ、なんだか、急にお腹が空いちゃった。さっきの屋台に戻って、他のものもたくさん食べに行こう」


 華はパッと表情を輝かせ、涙の跡が残る顔で、満面の笑みを浮かべて元気に立ち上がった。


「喜んでっす!街中の美味いもの、あーしが全部奢っちゃうっすよ!」


 二人はしっかりと互いの手を繋ぎ、本当の日常を取り戻すために、再び賑やかな街の雑踏へと歩き出すのだった。

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