託された鍵、月下の慟哭
重厚な調度品が並ぶ叡明の執務室では、主である叡明と、その側近である高星が、今後の後宮の管理体制や里との交渉についての書類を前に、静かに言葉を交わしていた。
張り詰めた、しかし落ち着いた平穏が流れるその空間が、突如として破られる。
――バァン!!!
凄まじい音を立てて、執務室の木製の重い扉が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、肩を激しく上下させ、顔中に汗を浮かべて息を切らせた華だった。
あまりの勢いに、高星が驚きで眉をひそめ、すぐに厳しい声音で窘めようと一歩前へ出る。
「華殿、いくら臨時とはいえ、ここは叡明様の執務室です。許可もなくこのような不作法は――」
「高星、待て」
高星の言葉を遮ったのは、叡明だった。叡明は机から顔を上げ、華の顔を真っ直ぐに見据えていた。
ただ事ではないその表情、見開かれた瞳に溜まった涙、そして尋常ではない怯えの気配を、叡明は瞬時に察知したのだ。
「……どうした、華。月光宮で、凛花に何かあったのか」
その問いに、華の張り詰めていた糸が切れた。
華は床に膝をつきそうなほどに身体を震わせながら、先ほど仕事部屋で起きた恐ろしい出来事を、声を詰まらせながらも必死に伝えた。
「叡明様……助けて、助けてくださいっ……!凛花様が、凛花様が……っ!薬味を盛る小皿を落として、こなごなに割っちゃったんす……!それだけならただの手滑りかもしれないっす。けど、凛花様は顔色一つ変えないで、素手でその尖った破片を拾い集めようとして……」
叡明はただ静かに華の言葉に集中していた。
「指先からボロボロ血が流れてるのに、痛がりも、怖がりもしないで、壊れた人形みたいに『大丈夫、お仕事しなきゃ』って、何度も、何度も繰り返して……!」
華は溢れ出てくる涙を袖で乱暴に拭いながら、すがるように叡明を見上げた。
「あーし、怖かったっす。凛花様の心は、もうとっくに限界を超えてるんす!何かをしていないと心が保てないからって、自分を壊すみたいに過剰に仕事を詰め込んで……!このままじゃ、凛花様が本当に、中からパリンって木っ端微塵に壊れちゃうっす……!お願いします、叡明様……あの方を、助けてやってください……!」
華の悲痛な叫びが、静かな執務室に虚しく響き渡る。
すべてを聞き終えた叡明は、落雷に打たれたかのように硬直していた。
哀しみに押し潰されないよう、あえて仕事に没頭させておくべきだ。
――そう判断し、泳がせていたのは他ならぬ自分だ。
だが、その甘さが凛花を追い詰めた。あいつは哀しみから逃げていたのではない。
己の心を凍らせ、壊死させながら、ただ人形のように動いていたのだ。
(なぜ気づけなかった……!いや、気づいていながら、踏み込むのを恐れただけだ……っ)
激しい自責と不甲斐なさで、叡明の拳は白くなるほど固く握りしめられ、微かに震えていた。
沈黙のなか、高星がいつになく真剣で、どこか悲痛な眼差しで叡明に進言した。
「……叡明様。今の凛花殿にとって、仕事は薬ではなく毒です。完璧な『薬師の自分』を演じることで、現実を拒絶しているのでしょう。ならば一度、その逃げ場から完全に引き離す必要があります」
「後宮から……離すというのか」
「はい。この場所にいる限り、彼女は仮面の剥ぎ取り方すら思い出せません。一度、まったく異なる環境に置くべきです」
高星の言葉に、叡明は深く息を吐き出し、何かを決意したように瞳を鋭く輝かせた。
「……分かった。凛花を後宮の外へ連れ出す。市井の、あの騒がしくも活気に満ちた賑やかな屋台街であれば、嫌でも薬師の仕事から意識が離れるはずだ。高星、すぐに凛花と華の二名分の【外出許可】の手続きをとれ。すべての責任は俺が持つ」
「かしこまりました」
叡明は机を回り込み、床に跪いたままの華の前へと歩み寄ると、その細い肩に大きな手を優しく、しかし確固たる信頼を込めて置いた。
「華。お前にしか頼めない。今の凛花は、俺たちの言葉を拒絶している。だが、同じ里の空気を吸い、桂花の最期と想いを知るお前になら、あいつの心の隙間に届くかもしれない。凛花を外の世界へ連れ出してやってくれ。……頼んだぞ」
「……!了解っす。叡明様……。あーし、何が何でも、絶対に凛花様を外へ連れ出してきます!」
華は涙をボロボロとこぼしながらも、力強く何度も頷き、叡明の信頼にその魂で応えることを誓った。
その日の夜――。
華は叡明から預かった、特別な外出の手はずが書かれた木札を懐に深く仕舞い込み、凛花の部屋へと向かっていた。
深夜の廊下は、不気味なほどに静まり返っており、自分の足音さえも白々しく響く。
凛花の部屋の前についても、中からは一切の物音がしない。
息が詰まるような静寂が、扉の向こうに広がっている。
華はごくりと唾を飲み込みながら、そっと、音を立てずに凛花の部屋の扉を押し開けた。
部屋の中は、冷たい月明かりだけが差し込む、静謐な闇に包まれていた。灯火すら点いていない。
その月光の中に、ぽつりと影が浮かんでいた。寝台に入ることもせず、床の上の机の前に、ぽつんと座り込んでいる凛花の姿だ。
凛花は、昼間に仕事部屋の引き出しの奥深くへと仕舞い込んだはずの、「桂花の手紙」を手にしていた。
まだ封も切られていないその紙片を、両手で、破れんばかりの力でぎゅっと握りしめている。
ガタガタと、まるで極寒の地に放り出されたかのように激しく震える身体。
月明かりの下、親友の直筆で書かれた『凛花へ』という歪な宛名だけが、白く浮かび上がっていた。
その背中は、今にもパリンと割れてしまいそうなほど、細く、儚かった。
それを見た華は、胸を容赦なく締め付けられ、視界が涙で激しく歪むのを止められなかった。
「凛花様……」
華は消え入りそうな声でその名を呼び、静かに、一歩、闇の中へと踏み出した。




