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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
香霞の里編:氷解

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砕け散る器、限界の仮面

 隣の部屋で一晩中、壁の向こうの微かな気配を窺っていたハナの願いも虚しく、夜は無情にも明けた。


 ろくに眠れていないはずの朝。


 それなのに、凛花リンカは何食わぬ顔をして、いつも通りの定時に寝台から起き上がってきた。


「おはよう、華。よく眠れた?」


 振り返った凛花は、髪一本の乱れもなく、完璧な衣服に身を包んでいた。


 その顔に浮かんでいるのは、後宮の誰もが「お優しくて優秀な薬師様」と称賛する、非の打ち所のない笑顔だ。


 けれど、その笑顔の奥にある瞳には、ぽっかりと底の割れた暗い奈落のような虚無が広がっている。


 華は心配で、心配でたまらず、喉の奥まで「どうしてそんなに無理をするんすか」という言葉が出かかった。


 しかし、凛花が「さぁ、今日も一日頑張りましょう」と一点の曇りもない声音で言うため、それ以上無理に問い詰めることも、その硝子の仮面を剥ぎ取ることもできなかった。


 その日は、芙蓉フヨウ様の夕食に使うための、特別な薬味の準備が予定されていた。


 月光宮げっこうきゅうの広々とした仕事部屋に、明苺メイメイシズカ小蘭シャオランの三人も合流し、和やかな空気の中で作業が始まる。


 いつものように世間話を交えながら手を動かす面々の中で、華だけは違っていた。華は作業を手伝いながらも、片時も凛花から目を離さず、その一挙手一投足に神経を尖らせて様子を窺い続けていた。


 トントン、トントン、トントン。


 いつもなら、流れるような美しい手際で薬草を包丁で刻んでいく凛花。


 そのリズミカルな音は、月光宮の心地よい日常の象徴でもあった。


 しかし、今日の音はどこかおかしかった。


 トントン……トン、トト、トン。


 どことなく、刃音がまな板を叩くテンポが不自然に乱れている。


 一定であるはずの刻み幅がほんの僅かに狂い、刃先が微かに震えているのを、華は見逃さなかった。


「凛花様、やっぱりそれ、あーしが代わるっす!あーしも里ではよく料理をしてたんで、薬草を刻むくらいならお手の物っすよ!」


 華はたまらなくなって、調理台の凛花の隣へと割り込み、包丁を握るその手をそっと引き離そうとした。


 だが、凛花は静かに、しかし断固とした拒絶の力を込めて、頑なに包丁を離そうとはしなかった。


「いいえ、大丈夫よ、華。この薬草の刻み具合は、私の指先の感覚じゃないと細かさが変わってしまうの。そうすると、お薬としての効能や、スープに溶かしたときの風味が変わってしまうから。私の仕事だもの、私にやらせて」


 そう言って、凛花は再びトントンと刃音を響かせ始める。


 向けられたその背中には、周囲の人間を一切寄せ付けない、目に見えないほど強固で、そして痛々しいほどの強情さが漂っていた。


 誰も自分の領域に入らせない。


 誰も、この凍りついた心に触れさせない。


 そんな悲痛な拒絶が、小さな背中から痛いほどに伝わってきた。


 そして、ついにその決定的な瞬間が訪れる。


 刻み終えた薬味を盛り付けるため、凛花が調理台の端にある白磁の小皿を持ち上げようとした、その瞬間だった。


 凛花の白い指先が、ガタガタと激しく痙攣するように震えだした。


 まるで、これまで無理やり張り詰めていた糸が、一気にぷつりと切れてしまったかのように、どうしても指先に力が入らなくなる。


「あ――」


 小さな声が漏れた。


 次の瞬間。


 ――ガシャーン!!!


 静かな仕事部屋に、耳を突き刺すような鋭い破片の音が響き渡った。


 床に落ちた白磁の小皿は、無残にも激しく砕け散り、鋭い破片となって辺りへと飛び散っていく。


 一瞬にして、部屋の空気が凍りついた。


 明苺も、静も、小蘭も、全員が息を呑んでその場に硬直してしまう。


 普通なら、驚いて声を上げたり、失敗を悔しがったり、慌てたりするはずの場面だった。


 しかし、凛花は一切、表情を変えなかった。眉一つ動かさず、驚きの手を口元に当てることすらしない。


 ただ、感情の完全に抜け落ちた瞳のまま、ゆっくりと床に膝をついた。


「すみません、手が滑ってしまいました。私の不手際です。すぐに片付けますから、みなさんはそのまま仕事を続けてください。……大丈夫です、大丈夫……」


 抑揚のない声で何度も何度も繰り返しながら、凛花は床に散らばる鋭い破片を拾おうと手を伸ばした。


 細い指先が、尖った白磁に触れる。ぴりり、と皮膚が裂け、鮮やかな紅い血がじわりと滲み出してきた。


 けれど、凛花は顔を顰めることすらしない。


「凛花、もうやめて!!」


 明苺が、耐えきれずにボロボロと涙を流しながら叫び、凛花の手を強く掴んで止めた。


 静と小蘭も駆け寄り、血の流れる手を包み込む。


「お願いだから、もう触らないで!片付けは私たちがやるから、凛花はあっちに行って座ってて!」

「でも、お仕事が……まだ、夕食の準備が残ってるから。私が、ちゃんと、やらなきゃいけないから……」


 視線を床に落としたまま、壊れた機械のようにうわ言を呟き続ける友。


 それを見つめていた華は、拳をぎゅっと握りしめた。


「……凛花様、もう時間がないっす」


 ぽつりと呟くと、華はわざと大袈裟な声を上げて立ち上がった。


「あーし、ちょっと外せない用事を思い出したっす!すぐ戻るっすから、みんな、凛花様をよろしくお願いするっす!!」


 叫ぶように言い残すと、華は仕事部屋の扉を勢いよく開け放ち、外へと飛び出した。


 涙で視界を滲ませながら、長い廊下を、自らの脚力が許す限りの全力で走り出す。


 目指すのはただ一つ――叡明のいる執務室だった。

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