灯火の下の執念、指先の強張り
翌朝。
遮光性の高い豪奢な帳を透かして、柔らかな朝の光が廊下へと差し込み始める頃、華は重い空気を吹き飛ばすように、わざと元気いっぱいの声を上げて凛花の部屋の扉を叩いた。
「凛花様、おっはよーございまーす!朝っすよ、朝!後宮の朝は早いって聞いてたんで、あーし、いつもより気合を入れて早起きしちゃったっす!」
返事を待たずに扉を開けると、驚いたことに凛花はすでに寝台から抜け出し、完璧に身支度を整えて机の前に座っていた。
華の快活な声に、凛花が静かに振り返る。
「おはよう、華。早いわね。そんなに慌てなくても、月光宮の朝の仕度はもう少し後でも大丈夫よ」
いつもと変わらない、穏やかで平坦な声音。しかし、華の鋭い暗殺者としての目は見逃さなかった。
月光に照らされた昨晩よりも、凛花の美しい瞳の微かに下に、より一層深く、青黒い隈が刻まれているのを。
華は胸の奥をキリキリと痛ませ、息を詰めたが、その動揺を隠すようにいつもの軽薄な口調でまくしたてた。
「いやー!だって、ここでの仕事、マジで楽しいんすもん!それに何より、昨日お会いした芙蓉様、めっちゃ美人じゃないですか!あーし、あんなお上品で綺麗な人、生まれて初めて見たっす。今度個人的に、お肌の美容について色々聞いてみたいっす!」
「ふふ、そう。それなら、麗妃様とも気が合うかもしれないわね」
凛花は、華の言葉に小さく唇を綻ばせた。
「麗妃様?それ、どなたっすか?」
「後宮の上級妃の一人よ。瑞蓮宮にいらっしゃるの。ご自身の美しさを保つための努力を、何よりも惜しまない素敵な方よ。お肌のお手入れに対する執念は、本当に凄いわ。そのうち、あなたにもお会いする機会があると思うから、紹介するわね」
「うおー!美の生き神様ってやつっすね!それはマジで楽しみにしてるっす!」
華はわざとらしく目を輝かせ、凛花を促して部屋を出た。
仕事部屋へと続く廊下で、明苺、静、小蘭の三人とも合流する。
華はさっそく、歩きながら「ねえねえ、みんな!麗妃様ってどんな人なんすか!?」と食いつき、いつも通りの賑やかなお喋りを始めた。
三人もまた、華が作ってくれる無理矢理なまでに明るい空気に、救われる思いだった。
ここで暗く沈んでしまえば、凛花の心をさらに追い詰めることになると分かっていたからだ。
「あ、麗妃様のこと?あの方はね、本当にお肌のお手入れに命をかけてるのよ!」
「そうそう!毎朝、南国から取り寄せたっていう怪しいハチミツの美肌膏をしてるって噂だし、食べ物にも凄くうるさいんだから!」
明苺と小蘭が身振り手振りを交えて大袈裟に盛り上がると、静もクスリと笑って相槌を打つ。
凛花もその賑やかな輪の端っこに静かに佇みながら、「ふふ、本当に退屈しない、素敵な方よ」と、柔らかな笑顔で言葉を添えていた。
一見すれば、いつもと変わらない平和な月光宮の日常。
しかし、いざ一日の仕事が始まると、凛花は周囲を置き去りにした。
時間の経過と共に目の隈がどんどん濃くなっているというのに、昨日以上のスピードと正確さで、次々と薬草の調合や毒見の仕事をこなしていく。
すり鉢を回す手付きには一切の迷いがなく、書類をめくる指先は機械のようだった。
どれほど重い仕事であっても、眉一つ動かさずに処理していく。
「リ、凛花様!その重いすり鉢は、かなりの力仕事だしあーしがやるっす!こう見えて、腕力には自信があるんすよ!」
「あ、それとこっちの書類の整理なら、文字の読めるあーしに丸ごと任せてください!助手らしく、役に立ちたいっすわ!」
華は、少しでも凛花の身体を休ませよう、その疲労を少しでも分散させようと、必死になって先回りし、凛花の目の前から仕事を強引に奪おうとした。
だが、凛花はその小さな手を静かに差し出し、華の動きを遮った。
「ありがとう、華。でも大丈夫よ。これは私の仕事だから」
凛花は拒絶するように静かに微笑み、華の手からすり鉢を優しく、しかし有無を言わせぬ力で取り返すと、再び自分でゴリゴリと薬草をすり潰し始めてしまう。
どれだけ周囲が手を差し伸べても、どれだけ華が必死になっても、彼女は自身の内側に張り巡らせた硝子の壁を超えさせようとはしなかった。
頑なに他人の好意を受け入れようとしないその細い背中に、華は言いようのない焦燥感を募らせていった。
夕方になり、全ての仕事が強制的に終了させられる刻限が訪れる。
明苺が、凛花の肩を強く掴んで、これまでになく真剣な顔で言った。
「凛花ちゃん、今日こそは絶対に、絶対に早く寝るのよ!?これ以上無理したら倒れちゃうんだから! 華ちゃん、ちゃんと見張っててね!」
「お任せっす!あーしが責任を持って、凛花様を寝台に放り込んで、目を開けられないように見張るっす!」
華はバンと自分の胸を叩き、凛花を促して部屋へと連れ帰った。
夜、華は約束通り、凛花が衣服を着替えて寝台に入り、温かい毛布をしっかりと首元まで被るのを見届けた。
「じゃ、おやすみっす、凛花様。明日はゆっくり起きても大丈夫っすからね」
「ええ、おやすみなさい、華。今日も一日、ありがとう」
凛花の穏やかで優しい声を聞き、華は今度こそ安心してお隣の自分の部屋へと戻っていった。
しかし、深夜――。
静まり返した後宮の静寂のなか、ふと胸騒ぎを覚えた華は、寝台から起き上がり、足音を完全に消して廊下へと出た。
凛花の部屋の前に立ち、僅かに開いた扉の隙間からそっと中を覗き込む。
華の嫌な予感は、最悪の形で確信に変わった。
パチパチ、パチパチと、小さな灯火が暗闇のなかで妖しく揺れている。
凛花は寝台から抜け出し、再び机に向かって、取り憑かれたように筆を動かしていた。
遅れてしまった分の薬草の効能書きか、あるいは新しい処方箋の作成か。
月光に照らされた凛花の背中は、痛々しいほどに固く強張っている。
そして、筆を限界まで強く握りしめている白い指先が、ほんの少しだけ、ピクピクと不自然な痙攣を起こしているのを、華は暗闇の中で見逃さなかった。
華は物陰で自らの唇を、じわりと血が滲むほど強く噛み締めた。
脳裏に、あの林の奥で命を散らせた、最愛の主の強い瞳がよみがえる。
――私の、一番の親友をお願いね。
託されたはずのその手を、今の自分は、伸ばすことすらできない。
パチパチと妖しく揺れる小さな灯火の下、狂ったように走り続ける筆の音だけが、静まり返った部屋に冷たく響いていた。
(……やっぱり、全然眠れてない。このままじゃ凛花様……本当に、心も体も、木っ端微塵に壊れちゃうっす……!)
親友の遺志を継ぎ、彼女の隣で絶対に支え続けると誓った華の心に、激しい危機感と、どうしようもない無力感、安定しない黒い焦りが、底なしの沼のように募っていくのだった。




