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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
香霞の里編:氷解

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白き指先、開かぬ手紙

 激動の夜が明け、後宮に戻った翌日。


 凛花リンカは、いつもと変わらない無表情のまま、住み慣れた月光宮げっこうきゅうへと続く回廊を歩いていた。


 そのすぐ後ろを、新しく叡明エイメイ直属の臨時女官となったハナが、大きな布背負子を背負いながらついていく。


「うわー……!後宮の中って、本気で別世界っすね……。どこを見てもピカピカで、おったまげたっす」


 華は首を左右に振り、豪華な柱の彫刻や、美しく整えられた庭園の景色に目を輝かせながらキョロキョロと辺りを見回していた。


 キョロキョロと落ち着かない華の何歩か先を、凛花はただ前だけを真っ直ぐに見つめ、無言のままサクサクと速い足取りで歩を進めていく。


 いつもなら苦笑混じりに窘めてくれるはずの背中が、今は酷く遠く感じられた。


「あ、あの、凛花様……?」


 華はその冷徹なまでに無駄のない横顔を見つめ、寂しげに、ぎゅっと口を閉じた。


 凛花の周囲に張り巡らされた、誰も寄せ付けないような見えない壁。それが華の胸を小さく締め付ける。


 二人はそのまま芙蓉フヨウ様の部屋へと向かい、無事の帰還の報告と、華を新しい侍女として紹介するための謁見に臨んだ。


 気品溢れる芙蓉様の前に出ると、流石の華も緊張で身体をガチガチに強張らせ、顔を真っ赤にしながらペコリと頭を下げた。


「え、叡明様直属の、あ、臨時女官の華っす!これから凛花様の助手として、一生懸命働くんで、よろしくお願いするっす!」

「ふふ、よろしくね、華。堅苦しくしなくて大丈夫よ」


 芙蓉様はいつものように優しく微笑み、華を温かく受け入れた。それから、凛花へと視線を移す。


 芙蓉様は、凛花の隣に、いつもいたはずのもう一人の侍女の姿がないことに気づき、そっと唇を開こうとした。


「あの、凛花。……桂花ケイカは――」

「桂花は、里での己の信念と、長としての役目を立派に全ういたしました。今はとても安らかにしております」


 芙蓉様が言葉を紡ぎきるより早く、凛花は遮るようにして、感情の起伏が一切ない声で報告した。


 芙蓉様は一瞬、驚いたように美しい目を見張った。


 だが、すぐにすべてを察したように、痛ましげに伏せ目がちになる。


 事前に高星から、里での悲劇と、心を閉ざしてしまった凛花の様子を密かに知らされていたのだ。


 衣服の袖を握る凛花の指先が、白くなるほど強張っているのを、芙蓉様は見逃さなかった。


「……そう。よく、無事に戻ってきてくれたわ。凛花、これからは華と共に、またよろしくね」

「はい。お任せください、芙蓉様」


 凛花は完璧な一礼を捧げると、華を連れて芙蓉妃の部屋を退出した。


 月光宮の仕事部屋に戻ると、そこには明苺メイメイシズカ小蘭シャオランの三人が待っていた。


 彼女たちもまた、凛花を気遣い、あえていつも通りに明るい声を響かせる。


「凛花、おかえり!これ、凛花ちゃんが留守の間に溜まっちゃってた仕事と、お薬の在庫確認の書類だよ!はい、よろしく!」

「ありがとう、みんな」


 凛花は受け取り、ふっと微笑んでみせた。


 けれど、その笑顔はどこか左右対称で、まるで作り物のようだった。


 明苺が何か言いかけ、しかし喉の奥で言葉を飲み込む。


 今の凛花には、一切の無駄口を叩く隙すらない。


 恐ろしいほどの正確さとスピードで薬草を仕分け、ただ黙々と仕事を処理していく。


 お昼時、芙蓉様に提供される食事の毒見を行う時間になった。


 いつもなら、凛花は料理を口に含むと「今日も美味しいですね」と小さく感想を漏らしていた。


 しかし、今回は無言のままパクリと食べ、咀嚼し、飲み込むと、


「毒はありません」


 それだけを冷淡に告げた。


 いつもなら一言添えられるはずの、料理への感想はない。


 徹底して感情を排除したその横顔に、傍で見守っていた明苺たちは言葉を失い、ただ互いに顔を見合わせることしかできなかった。


 夕方になり、ようやく一日の仕事と片付けが終わる。


 明苺が心配そうに、凛花の顔を覗き込んだ。


「凛花、今日は長旅の翌日なんだし、もう無理しないで、早くお部屋で休んでね?」

「ええ。みなさんも、今日はお疲れ様でした」


 凛花は事務的な一礼をすると、そのまま自分の部屋へと戻っていった。


 その日の夜。


 お隣の部屋をあてがわれた華は、ふと、静まり返った廊下へと出た。


 もう深夜だというのに、凛花の部屋の明かりが、いつまで経っても消える気配がない。


 胸を騒がせた華が、そっと扉の隙間から中を覗き込む。


 そこには、寝台にも入らず、机の前に座り込んだ凛花の姿があった。


 凛花の手にあるのは、昼間、見ることすら拒んで引き出しの奥底へ、鍵をかけて封印したはずの封筒だった。


 机の片隅には、小さな鍵がぽつんと取り残されている。


 彼女はその手紙を開封することもなく、ただ、封筒に書かれた懐かしい親友の宛名を、灯火の下でいつまでも、いつまでも、じっと見つめ続けていた。


「凛花様……」


 華は声をかけることもできず、ただ扉の隙間から、その小さな背中を見つめ続けた。


 細い肩が、灯火の影の中でほんの少しだけ、震えたような気がした。

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