新しい助手と、臨時の女官
重厚な静寂に包まれた、叡明の執務室。
主である叡明は、机に山積みにされた書類に視線を落としながら、目の前に佇む有能な側近、高星へと声をかけた。
「そうか。俺が留守にしている間、後宮の内部には、特に大きな問題は起きなかったのだな」
「はい。雪華妃様が突如として軍に同行された件について、上級妃の女官たちが一時、不穏な空気を感じて動揺していたようですが、それ以外は普段通りに推移しております。ご安心ください」
高星は淡々と、しかし完璧な報告を終えると、手元の木札を静かに机へと置いた。
「よし。ならばこれらをまとめ、明日、帝へ事の顛末をすべて報告しに行くぞ」
「承知いたしました。……それと、叡明様。少々、個人的な質問をよろしいでしょうか」
高星の真剣な眼差しに、叡明は筆を止め、椅子に深く身体を預けた。
「……ああ。やはり、気づいていたか」
「はい。不躾ながら、あれほどまでに張り詰めた様子で、無理に普段通りを演じている凛花殿の姿は、初めて見ましたので。里で、一体何があったのですか?」
叡明は痛ましげに目を伏せ、深くため息をついた。
「……芙蓉妃の侍女であった桂花が、亡くなったのだ」
「桂花殿が……、そんな」
高星が息を呑む。叡明は、里で見たあの夜の光景を思い返すように、静かに言葉を紡いだ。
「詳しい経緯については、まだ本人から一言も聞いていない。だが……忘れもしない、俺が露台で凛花を見つけたときの、あの凍りついたような空気」
「あいつにとって、あの侍女がどれほど特別で、どれほど大きな存在だったのかは、語らずとも十分に伝わってきた。大切な人を、自らの手で看取ることになったのだろう」
「なるほど……。最も失いたくない大切な人を、亡くされたのですね」
「ああ。だから、本人の口から話してくれるまでは、俺たちから無理に穿り返すような真似はすまい。ただ、待つしかあるまいな」
「そうですね……。ひとまず、芙蓉妃様には私の方から、桂花殿が里で亡くなったこと、配慮を交えてお伝えしておきます」
「頼んだぞ、高星」
二人が重苦しい沈黙を共有していた、その時だった。
扉が静かにノックされ、凛花と華が揃って執務室へと入ってきた。
「叡明様。明日から、私はまた月光宮での毒見と調薬の仕事に戻ります。その際、こちらの華も、私の助手として月光宮へ同行させたいのですが、よろしいでしょうか」
凛花の声には、一切の揺らぎがなかった。
まっすぐに叡明を見つめるその瞳は、いつもの冷静な「毒見役の女官」そのものだった。
その後ろで華もまた、いつもの明るい笑みを顔に貼り付けて拳を握りしめていた。
「あーしも、月光宮で凛花様の隣でバリバリ仕事するっすよ!」
「……ああ、頼んだ。それと華、お前のことだが、当面の間は正式に『叡明直属の臨時女官』として、後宮での身分を保証する。主な任務は凛花の助手だ。高星、すぐに手続きを進めてくれ」
「かしこまりました。では華殿、こちらの書類へ署名を。こちらへどうぞ」
高星の案内に、華は「おおっ!」と大袈裟に声を上げて目を輝かせた。
「あーしもこれで、ついに後宮の正式な女官ってやつっすね! 了解っす! 凛花様、これからバリバリの助手として働くんで、どんな雑用でも、何でもこき使ってくださいね!」
華のそのわざとらしいほどの明るさに、高星も凛花を気遣う彼女の健気さを察し、少しだけ目元を和ませた。
凛花は、華の様子を見届けると、叡明様にまっすぐな視線を向けた。
「明日、芙蓉様にも、華を一時的な私の侍女として紹介させていただきます」
「ああ、お前のやりやすいようにするといい」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
凛花は完璧な一礼を捧げると、華を連れて、スタスタとした澱みのない足取りで執務室を後にした。
パタン、と扉が閉まり、二人の気配が完全に遠ざかる。
それを見送った後、高星は深くため息をつき、ぽつりと呟いた。
「いつも通り、と言わんばかりの歩みでしたね……」
「ああ。……実の親に会えた喜びなど、吹き飛んでしまっただろうな」
叡明は強く、強く机の上で拳を固く握りしめた。
これほどの激動の夜を過ごしながら、涙一つ流さずに仕事へ没頭しようとする彼女の心が、どれほどの悲鳴を上げているか。
「だが、あの凍りついた氷が溶けて、彼女が自ら仮面を外せるその日まで……俺たちは、ただ隣で支え続けるしかないのだ」
「ええ。彼女の居場所を、守り続けましょう」
高星の静かな言葉に、叡明は小さく頷いた。
開け放たれた窓からは、夜の後宮を渡る冷たい風が吹き込み、机の上の書類をカリカリと小さく揺らしている。
叡明は再び筆を執ると、墨をたっぷりと含ませた。
明日、帝へ報告すべき事柄は山ほどある。
凛花が必死に守ろうとしているこの場所を、今度は自分たちが泥を被ってでも維持しなければならない。
重苦しい沈黙が戻った執務室の中で、ただ、筆が紙を滑るサラサラという音だけが、夜更けまで静かに響き続けていた。




