遺された手紙、偽りの日常
住み慣れた皇宮の広大な敷地を通り抜け、私――凛花と叡明様、そして華の三人は、重厚な木扉を叩いて、叡明の執務室へと向かった。
扉が開くと、中では留守を預かっていた高星が、いつもと変わらない生真面目な顔で書類を整理していた。
私たちの姿を認めるなり、高星は安堵の息を漏らして深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、叡明様。……そして凛花殿、よくぞご無事で戻られました」
「高星様、ご心配をおかけしました。ただいま戻りました」
私はいつも通りの所作で頭を下げた。
高星様は私がいなくなる前と様子が変わっていることに気づいていたようだったが、詮索することはせず、視線を私の後ろへと移した。
「そちらにいるお方は……どなたでしょうか?」
「ああ、紹介しよう。香霞の里から連れてきた華という娘だ。これからは俺の直属の臨時女官として、凛花の補佐をしてもらうことになる」
「ども!高星様!あーしは華って言いまーす!よろしくっす!」
華はお面を腰に揺らしながら、後宮の最高官僚の一人である高星に対しても、いつもと変わらない調子で元気よく挨拶をした。
高星は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「華殿ですね。よろしくお願いいたします」
「華の処遇や香霞の里の詳しい報告については後で話す。高星、まずは二人をそれぞれの部屋に戻らせてゆっくり休ませてやりたい。お前は俺に、留守中の後宮の様子を聞かせてくれ」
「承知いたしました」
叡明様の配慮に、私は「失礼します」と静かに頭を下げ、華を促して執務室を出た。
廊下に出ると、私は華の顔を見上げた。
「華、あなたに用意された空き部屋へ案内するわね。私についてきて」
「はーい、了解っす!……それにしても、ここが噂の後宮なんすねぇ。さっきからすれ違うのが綺麗な女の人ばっかりで、なんかこう、裏でギスギスしたドロドロの空気が流れてそうな予感がビンビンするっす!」
華はきょろきょろと周囲を見渡しながら、大袈裟に身震いしてみせる。
その突飛な感想に、私はフッと小さく唇を綻ばせた。
「間違ってはいないけど。そういう場所だから、気をつけてね」
「うわ、やっぱりそうなんすね!あーし、ネズミ退治は得意だけど、女の人の陰湿な戦いはちょっと勘弁っすわ!」
そんな他愛のない会話をしながら、私は案内された空き部屋の扉を開けた。
「ここを使って。私の自室はすぐ隣だから、何かあれば声をかけて」
「おぉー!なんと広くて立派な部屋!あーしには勿体無いくらいっす!……あ、凛花様、荷物の整理が終わったら、そっちの部屋に遊びに行ってもいいっすか?」
「ええ、構わないわ。じゃあ、後でね」
私は短く答えると、自分の部屋へと入り、静かに扉を閉めた。
誰もいない、静まり返った自室。窓から差し込む光のなかに、見慣れた調薬の棚や机が浮かび上がっている。
私は肩にかけていた布背負子を、床の上へとそっと下ろした。
その瞬間。
布背負子の底に仕舞い込んだ「桂花の木箱」の重みが、ズシンと掌を通じて私の身体へと伝わってきた。
私はその重みから逃げるように、素早く手を離し、荷物から目を背けた。
見たら、触れたら、きっと私は私でいられなくなる。
しばらくして、隣の部屋から「お邪魔するっす!」と元気な声と共に華がやってきた。
華は私の部屋に入るなり、物珍しそうに辺りを見回して鼻をくんくんと鳴らした。
「うわー!やっぱり凛花様の部屋は、怪しい薬草がいっぱいで、なんか変な匂いがするっすね!」
「失礼ね。これはすべて、病を治すための貴重な生薬よ」
いつも通りの私の返しに、華は「あはは、冗談っすよ!」と笑った。
こうして、後宮での私たちの「新しい日常」が、少しずつ動き出そうとしていた。
けれど、華はふと笑みを収め、真っ直ぐに私を見つめてきた。
「ところで凛花様、少し真面目なお話しをしてもいいっすかね?」
「……どうしたの?」
「あーしが、この住み慣れない後宮にまでついてきた理由、本当のところはね……桂花様から、最後に頼まれたからなんす。『凛花は私の大切な親友だから、もし私に何かあったら、あの子についていって、傍で守ってあげて』って」
「だから、あーしはこれからずっと、凛花様の傍にいるっす。何か辛いことや、手伝ってほしいことがあれば、何でも言ってほしいっす!」
華のその真っ直ぐで偽りのない言葉に、私の凍りついた顔が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
「……ありがとう、華。私には、もう少し……心と頭を整理するための時間が必要だけど。心の整理がついたら、ちゃんとお話したいことがあるから。その時になったら、話をさせてね」
「もちろんっすよ!今は何も気にせず、ゆっくりご自身を休ませてください!」
華が力強く頷いた、その時だった。
外の廊下から、バタバタと激しい、何人もの足音が響いてきた。
直後、部屋の扉が勢いよく、壊れんばかりの勢いで跳ね上がる。
「凛花ちゃんーーーっっ!!」
叫び声と共に部屋に飛び込んできたのは、月光宮で私の帰りを今か今かと待ちわびていた明苺、静、小蘭の三人だった。
三人は涙を流しながら、私の身体に一斉に飛びつき、壊れ物を抱きしめるように強く強く抱擁した。
「うおっ!?なんすか、この美女たちのすんごい勢いは!あーし、びっくりして心臓止まるかと思ったっす!」
華は突然の三人娘の乱入に、目を丸くして一歩後ろへと下がった。
ようやく無事を喜ぶ抱擁が落ち着くと、小蘭が涙を拭いながら、部屋の隅に立つ見慣れない華の姿に気づいた。
「あ、あれ……?その子は……だあれ?」
「紹介するわ。香霞の里から、叡明様の臨時の女官としてついてきてくれた華よ。これからは私の助手をしてくれるの」
「ども!華って言います!不器用っすけど、よろしくっす!」
華がいつも通り元気に挨拶をする。
けれど、明苺たちは挨拶を返しながらも、不自然に部屋のあちこちへと視線を彷徨わせた。
そこに、いつもなら真っ先に私を心配してくれる、もう一人の少女の姿がない。
「……あの、凛花ちゃん。桂花ちゃんは……?桂花ちゃんは、一緒じゃないの?」
小蘭の不安げな問いかけに、私は感情の消え失せた、極めて穏やかで静かな声で答えた。
「桂花は……香霞の里に残ったの。彼女は、自分の信念を最後まで貫き通して……。今は、とても安らかに、気持ちよく眠っているわ」
その「眠っている」という言葉の、あまりにも不穏な響き。
そして、私の瞳の奥に一切の光が灯っていないのを、静と小蘭は見てしまい、息をのんだ。
華は、里での最期の瞬間をすべて知っているからこそ、静かに視線を落とし、悲痛な面持ちで拳をギュッと握りしめていた。
沈黙のなか、明苺が震える手で、懐から一通の手紙を取り出した。
「……やっぱり、そういうことになっちゃったんだね。凛花、これね……桂花ちゃんが里へ出発する前、私に預けていったものなの。『明苺宛の手紙とは別にもう一つ、凛花ちゃん宛の手紙があるの。もし、私たちが無事に帰ってきたら、この手紙は明苺から直接私に返してね。約束だよ』って……書かれてたんだ」
明苺から差し出された、色褪せたその手紙。
それを見た瞬間、私の胸の奥の氷が、嫌な音を立ててひび割れた。
あの子は――あの時、私を救うために後宮を出る前から、すでに自分の命を懸けるだけの、最大の覚悟をここに遺していったのだ。
華も、それが亡き主の遺した何よりの遺志だと察し、息を呑んで私の様子をじっと見つめている。
けれど、私はその手紙に書かれた親友の文字を見ようともしなかった。
震えそうになる指先を強引に抑え込み、手紙を受け取ると、そのまま机の引き出しの一番奥の底へと、滑り込ませるようにして仕舞い込み、鍵をかけた。
「ありがとう、明苺。……でも、今はまだ長旅の片付けや報告の準備があるから、後でゆっくり読むわね。それよりも、私が留守にしていた間の月光宮のお仕事に、何か滞りはなかった?」
あまりにも不自然に、まるでお天気の世間話でもするかのように仕事の話を始める私に、明苺たちは言葉を失い、ただただ痛ましげに顔を歪めた。
このままでは、この部屋の空気が耐えきれずに爆発してしまう。
華が、あえて私の空気に付き合うように、無理に明るい声を張り上げてくれた。
「あ、あーしもその、月光宮のお仕事ってやつ、超興味あるっす!凛花様、あーしにもこれからのために、その毒見とか調薬のやり方、早く教えてくださいよ!」
「ええ、そうね。華には覚えてもらうことがたくさんあるわ」
華の明るい声にすがるようにして、私は完璧な「いつもの私」を演じながら、机に向かって筆を執った。
背後で、明苺たちの押し殺した泣き声が聞こえる。
親友の手紙にすら蓋をして、いつもの仕事を始めようとする私の背中を、彼女たちがどんな痛ましげな目で見つめているか、分かっていた。
今の私には、こうして手を動かすことしかできない。
涙を堪えて立ち尽くす三人から逃げるように、私はただ、淡々と白い紙に墨を走らせ続けた。




