仕舞われる木箱、後宮への帰路
ガタゴトと、一定の小気味よい音律を刻みながら、大路をひた走る馬車の車輪が鳴り響いていた。
香霞の里を離れ、目指すは帝の住まう広大な都。
その中にある、私たちが日常を過ごす後宮への帰路である。
馬車の車内には、私、凛花と叡明様、そして臨時の女官という名目で同乗している華の三人が座っていた。
私は、車窓からゆっくりと後ろへ流れていく見慣れない山々の景色を、ただぼんやりと眺めていた。
頭の中はひどく静かで、何を考えるでもなく、ただ瞳に映る緑を数えているようだった。
ふと、膝の上に置いていた布の包みに目を落とす。
出発する間際に、お母様(明霞)が「途中で食べてね」と持たせてくれたお弁当だった。
私は静かにその紐を解き、丁寧に詰められたおにぎりを一つ、口へと運んだ。
「……お母様のご飯、やっぱり美味しいです」
私は窓の外を向いたまま、小さく、柔らかく微笑んでみせた。けれど、その瞳の奥には何の感情の光も宿ってはいなかった。
舌は確かにお米の甘みや塩気を感じ取っているのに、それが心にまで届かない。
ただ顎を動かし、飲み込む。それだけの作業だった。
私は人形にでもなってしまったかのよう。
そんな重苦しい沈黙をかき消すように、対面に座る華が大きな声を上げた。
「いやー!それにしても里の人ら、あーしが急にいなくなるって言ったら、すんごい大騒ぎしちゃってさ!『華がいなくなったら、誰がこの最新の流行りを伝えるんだ!』とか言っちゃって、もう本当にウケるんすよ!」
華は身振りを手振りを交えながら、持ち前の明るさで里のくだらない噂話や流行の髪型について、賑やかに喋り散らかし始めた。
それが、少しでも車内の空気を明るくし、私を元気づけようとする彼女なりの不器用で必死な優しさだということは、痛いほど分かっていた。
「へえ、里では今、そんなお化粧が流行っているのね。後宮の女官たちが見たら、きっと驚くわ」
「でしょでしょ!?凛花様なら絶対に興味持つと思ったっす!」
華の弾んだ声に、私は一分の狂いもなく、完璧な呼吸で相槌を打って笑ってみせる。
楽しそうに言葉を交わし合う二人の空間。
――しかし。
どれだけ言葉を重ねても、私たちの間には、決定的な「空白」が横たわっていた。
いつもなら、この馬車の席に、華のくだらない話に呆れたような顔をして、けれど誰よりも楽しそうにくすくすと笑っていたはずの、一人の少女がいない。
その圧倒的な不在の事実が、あえて明るく振る舞う華の言葉の節々から滲み出て、かえって痛々しさを際立たせていた。
叡明様は、そんな私たち二人の張り詰めたやり取りを、何も言わずにただ静かに見守り続けていた。
ただ、私を包み込むようなその静かな眼差しだけが、張り詰めた私の心をどうにか繋ぎ止めてくれていた。
やがて、道中の休憩のために、馬車が街道の脇へと止められた。
御者が馬に水をやっている間、私たちは外の空気を吸うために一度、地面へと降り立った。
心地よい風が通り抜けるなか、華が「あ、そうだ。忘れるとこだったっす」と声を上げ、自分が背負っていた布背負子を手元に引き寄せた。
華がその奥から取り出したのは、丁寧に古い布で包まれた、小さな長方形の荷物だった。
「出発する本当に直前、里の若い奴から『凛花様に渡してくれ』って預かってたのを忘れてたっす。……これ、桂花様の部屋に残されてた、彼女の私物らしいっすよ」
華はそう言って、布に包まれた小さな木箱を、私の目の前へと差し出してきた。
「……っ」
差し出された木箱を見つめたまま、私の指先が、小さく震えた。
――見たくない。
胸の奥で、冷たく固めていた塊がみしりと軋む。
私は慌ててそれを心の奥へと押し戻し、いつもの、何も映さない顔を張り付けた。
華の手から受け取った木箱は、驚くほど軽い。
私はその包みを解くことも、中身を確かめることもしなかった。ただ、じっと手元を見つめる。
「ありがとう、華。……でも、今はまだ旅の途中だし、こんな道中で荷物を広げたら、大事な中身を失くしちゃうかもしれないわ。後宮に戻って、自分の部屋で落ち着いたら、ゆっくり見ることにするわね」
私は極めて冷静に、もっともな理由を口にした。
そして、自分の布背負子を開けると、その包みを一番奥の、着替えの衣類や重い調薬道具のさらにその『底』へと、押し込むようにして仕舞い込んでしまった。
中身に触れてしまえば、自分が必死に保っているこの「平穏」が、一瞬で粉々に砕け散ってしまう。
私の本能が、それを全力で拒絶していた。
叡明様は、私が意図的にその箱を心の奥底へと封印したのを、鋭く見抜いたようだった。
すべてを察したかのように、私の言葉に寄り添い、優しく声を合わせてくれた。
「……ああ、それがいい。長旅の道中だ、荷物はまとめておいた方が安全だろう。後宮に着けば、お前の部屋でいくらでも時間が取れるさ。その時にゆっくり見ればいい」
「ええ、そうですね、叡明様」
私は深く頷き、再び馬車へと乗り込んだ。
それからさらに半日ほど揺られ続けた頃、車窓の遥か向こうに、見慣れた巨大な城門と、高くそびえ立つ後宮の美しい瓦屋根が姿を現した。
我が家とも言えるその景色を見上げた瞬間、私は自身の顔に、いつもの完璧な「毒見役の女官」としての仮面を、きっちりと被り直した。
「やっと、戻ってきましたね。さあ、私たちが留守にしていた間に、溜まっているお仕事を片付けなくちゃ。月光宮では、明苺たちも待っているわ」
馬車が完全に停止し、扉が開かれると、私は布背負子を肩にかけ、前を向いてスタスタと迷いのない足取りで歩き出した。
早く、仕事をしなければ。
手を動かして、いつもの日常に戻らなければ。
しかし、前を行く私の背中は、どこか脆く、今にも崩れそうな様子だった。
そして、私の背負う荷物の、一番暗い底には――決して開けられることのない「桂花の遺品」が、冷たく眠ったままだった。




