人形の調薬、ひび割れた器
香霞の里を覆っていた長い夜が明け、歓声と安堵の息吹が広がりつつある禁軍の本陣。
そこへ、一振りの嵐が去ったかのような圧倒的な存在感を放ちながら、梟仙が真っ先に帰還した。
その強靭な両腕には、信じられないほど静かに、物言わぬ一人の少女が抱えられている。
「おかえりなさい、梟仙様。見事な大立ち回りでしたわね」
本陣の天幕で冷徹に戦況を見つめていた上級妃・雪華が、優雅に扇子を揺らしながら彼を迎えた。
梟仙は何も言わず、ただ無言のまま、抱きかかえていた桂花の身体を、用意されていた清潔な寝台の上へと静かに横たえた。
その表情はあまりにも穏やかで、まるで過酷な戦いなど最初からなかったかのように、ただ心地よい微睡みの中にいるようにしか見えない。
雪華はその少女の顔を覗き込み、扇子を小さく畳んだ。
「……その子が、あなたの恩人の?」
「ああ。里の長の娘、桂花だ。我が妻を、命に代えて守り抜いてくれた」
その言葉を聞いた瞬間、傍らに控えていた華が、音もなく寝台へと近づいた。
いつもの軽薄な足取りはどこにもない。
華は桂花の冷たくなり始めた小さな手をそっと両手で握りしめ、瞳を潤ませながら、ぽつりと呟いた。
「桂花様……最高の笑顔で、全部やり遂げたんすね。……さすが、あーしの自慢の主っす」
華はふっと立ち上がると。
「……ちょっとあーし、外の空気を吸ってきますね。ネズミの残党がいないか、見回ってくるっす」
いつも通りの軽い口調を装いながらも、その背中が微かに震えているのを、その場にいる誰もが気づいていた。
華は溢れそうになる涙を隠すようにして、足早に天幕の外へと去っていった。
明霞は華の後ろ姿を静かな目で見送った後、寝台の横へと膝をついた。
桂花の白くなった頬にそっと触れ、愛おしそうに撫でる。
「桂花さん……あなたから救われたこの命、私は絶対に無駄にはしないわ。あなたたちが守ってくれた未来を、この一歩を、大切に生きる。……本当に、ありがとう」
深く、深く胸の中で誓いを立てた後、明霞は立ち上がり、じっと佇む夫の姿を見つめた。
かつて後宮で、ただ冷徹な武神として恐れられていたあの男が、今は一人の少女の死に、拳を血がにじむほど強く握りしめて耐えている。
「あなた……本当に、変わったわね」
明霞のどこか懐かしむような優しい微笑みに、梟仙は胸を突かれたように目を見開いた。
「……ああ。お前を失い、あの子を一人にし、私は多くの過ちを犯した。……だが、明霞、お前はあの頃と変わらず、本当に美しいままだな」
梟仙は大きな手を伸ばし、愛おしい妻の身体を壊さないように優しく、けれど二度と離さないという強い執念を込めて、静かにその胸へと抱きしめた。
明霞も夫の広い背中に手を回し、その温もりに目を細める。
だが、ふと天幕の入り口へと目を向け、眉をひそめた。
「……ところで、凛花は一緒じゃないの?」
「無事だ。叡明様が連れてきてくれている。……無事、なのだが……」
梟仙はそこで言葉を詰まらせ、苦しげに視線を落とした。
それから少し遅れて、天幕の帳が静かに上がった。
中に入ってきたのは、叡明様と、その彼に手を引かれた私――凛花だった。
雪華様は、私たちが一歩足を踏み入れた瞬間、その鋭い観察眼で私の姿をじっと見つめた。
そして、私の表情、私の歩き方、私の纏うあまりにも異様な空気の正体を瞬時に見抜き、心の中で深く息を呑んだ。
(この子が、凛花……。けれど、今はとても声をかけられる状態ではないわね。泣くことも、叫ぶこともできず……まるで、心が内側から粉々にひび割れて、今にも崩れ落ちてしまいそうだわ)
「凛花、ここに座るんだ。もう大丈夫だからな」
叡明様は私を気遣い、天幕の奥にある腰掛けへと優しく腰掛けさせた。
お母様が、弾かれたように私の元へと駆け寄ってくる。
そして、私の目の前にしゃがみ込むと、私の両頬を愛おしそうに包み込み、何度も何度も私の頭を優しく撫でた。
「凛花……。私の大切な、可愛い凛花。辛かったわね、苦しかったわね……。でも、あなたはできることを全てやったのよ。自分を責める必要なんて、どこにもないのよ……っ」
お母様の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、私の衣装を濡らしていく。
ずっと求めていた、お母様の優しい言葉と、その絶対的な温もり。
――けれど。
私の目からは、やっぱり涙の一滴すら、どうしても湧き上がってはこなかった。
私はお母様の泣き顔をじっと見つめ、不自然なほどに穏やかで、透き通った微笑みを浮かべてみせた。
「ええ、分かっています。だからお母様、そんなに泣かないでください。私はちっとも自分を責めてなんていません。……だって、桂花は私が作った、世界で一番優しいお薬を飲んで、今、とっても心地よく眠っているだけなんですから」
「――っ!」
私のそのあまりにも痛々しい、感情の抜け落ちた言葉を聞いた瞬間、お母様は息を呑み、言葉を失った。
これ以上ないほどの悲痛な表情で顔を歪めると、壊れてしまいそうな私を繋ぎ止めるように、さらに強く、私を抱きしめた。
隣で見守る雪華様も、あまりの危うさに胸を強く締め付けられ、ただ静かに扇子を握りしめていた。
そこへ、天幕の外でしっかりと涙を拭いてきた華が、静かに戻ってきた。
華は、お母様の腕の中で、どこか遠い世界を見つめるような虚ろな目をしている私を見て、何か声をかけようと一歩前に踏み出した。
――だが、それを叡明様が静かに制した。
叡明様は華の前に立ち、小さく首を振ると、誰にも聞こえないような低い声で、そっと呟いた。
「……今は、そっとしておいてやってくれ。あいつの器は今、限界までひび割れている。下手に触れれば、本当に粉々に砕け散ってしまう……」
華は唇を噛み締め、黙って引き下がった。
私は、お母様の温かい腕の中から、するりと音もなく抜け出した。
そして、すくっと何事もなかったかのように立ち上がると、衣服についた夜の戦火の汚れや泥を、小さな手で丁寧に、淡々と払い落とした。
周囲にいるお父様、お母様、そして叡明様をぐるりと見渡し、いつも通りの冷静な声で告げる。
「お母様、お父様。この本陣には、外の激しい戦いで傷ついた禁軍の兵や、里の守衛たちがたくさん運ばれてきているはずです。……私は薬師ですから。すぐに怪我人の手当てのお手伝いをさせてください」
その唐突な申し出に、叡明様が驚愕に目を見開いて私の肩を掴んだ。
「凛花。お前もこの激動の夜を過ごし、心身ともに限界のはずだ。まずは大人しく休め」
「いいえ、ちっとも疲れていません。怪我人は待ってくれないわ。それに……手を、動かしていないと……」
私は一瞬だけ、喉の奥が詰まったように言葉を失った。
頭の芯が、一瞬だけ激しくグラリと揺れたような気がした。
けれど、私はすぐに、いつもの冷徹で、何も映さない感情の仮面を被り直し、完璧な平穏を取り戻してみせた。
「――とにかく、行ってきます。道具の準備がありますから」
私はそれだけ言い残すと、叡明様の手をすり抜け、調薬道具をしっかりと手に持って、天幕の奥へと歩き出してしまった。
今の私を止めることができる者は、もうこの世界のどこにもいなかった。
あの日からずっとずっと追い求めていた。
お母様とお父様との、家族揃っての再会。
その悲願は確かに今、この場所で叶ったはずだった。
だが、まだ重苦しい哀しみの余韻が立ち込める本陣の片隅で、私――凛花だけがただ一人、感情を失った。
人形のように、淡々と、黙々と、傷ついた兵たちの手当てを始めていた。
狂ったように手当てへと没頭していく。
その、今にも崩壊してしまいそうな、あまりにも痛々しい少女の後ろ姿。
叡明様、お母様、そしてお父様は、ただ切ない、祈るような眼差しで見つめ続けることしかできなかった。




