言葉無き返事と、凍てつく夜明け
宝石箱をひっくり返したような満天の星々が、静寂に包まれた世界をただ黙って照らしていた。
私は、自分の肩にそっと頭を預けている親友の、その愛おしい横顔を見つめながら、静かに声をかけた。
「――桂花、まだ起きてる?」
返事は、なかった。
夜風が私たちの間をすうっと通り抜けていく。
私がずっと握りしめていた彼女の小さな手から、微かな力が失われ、掌からするりと静かに落ちていった。
床に力なく横たわったその手は、もう二度と、私の手を握り返してはくれない。
「……そっか」
私は小さく呟いた。
ただそれだけだった。
涙は出なかった。
胸の奥が妙に冷たくて、頭の芯だけがひどく冷静だった。
それからどれほどの時間が流れただろう。
静まり返った屋敷の下階から、突如として無数のせわしない足音が響いてきた。
鎧が擦れ合う金属音と、統制された兵たちの気配。
足音は階段を駆け上がり、私たちが身を寄せ合っている露台の入り口へと近づいてくる。
「――凛花ッ!?」
闇を裂くようにして露台に現れたのは、息を荒く乱した叡明様だった。
彼は周囲を鋭く警戒しながら飛び出してきたが、露台に立ち込める、あまりにも静かで、あまりにも濃密な悲しみの空気を肌で感じ取り、その歩みをピタリと止めた。
彼は抜き放っていた太刀を静かに鞘へと収めると、息を整えながら、一歩、また一歩とゆっくり私の方へ近づいてくる。
叡明様は、私と、私の隣で眠る桂花の真後ろまで来ると、押し殺したような低い声で語りかけてきた。
「凛花……。怪我はないか……?」
私は、繋がれたままの星空をじっと見つめたまま、微動だにせず答えた。
「……ありません」
「そうか。……なら、その隣にいるのは、桂花だな」
「はい……」
力のない、けれどひどく明瞭な私の応えを聞き、叡明様は背後に控えていた禁軍の兵たちに向けて、静かに手で合図を送った。
「……お前たちは一度、露台から下がれ。周囲の警戒に当たれ」
「はっ」
兵たちが音もなく退いていき、露台には再び、私たち三人だけの静寂が戻ってきた。
叡明様は、天を仰ぐ私の隣に静かに佇み、苦しげに顔を歪めた。
「その……遅れてすまなかった、凛花。梟仙殿が、お前が残していった手紙を見つけてな。すぐに我らへ報せが入り、一刻も早くここへ駆けつけたのだが……里に、これほどの被害を出してしまった。本当に、申し訳ない」
一人の女官である私に深く頭を下げている。
けれど、私は星空から目を離さないまま、静かに首を横に振った。
「叡明様が、謝る必要なんてありませんよ。私が最初から、すべてを後宮でお話ししておけば良かっただけのことです。私が一人で抱え込もうとしたから……」
「凛花……」
叡明様が私の名前を呼んだ、その時。
再び、ドタドタと激しく床を叩く足音が近づいてきた。
露台の扉が勢いよく開かれ、そこに現れたのは、巨大な大矛を携えた、私の実のお父様――梟仙だった。
「凛花! 無事かッ!?」
お父様は鋭い眼光をぎらつかせ、私の姿を見つけるなり叫んだ。
「お父様……。本当に、来てくれたんですね」
「当たり前だ!お前がどこにいようとも、危機があれば必ず駆けつけると、あの時約束しただろう!」
逞しい声を響かせたお父様だったが、私の隣に横たわる桂花の姿と、床に広がる血の海、外から聞こえる戦火の名残、そして私の不自然な様子を目にした瞬間、その言葉を完全に詰まらせた。
一世を風靡した高名な武神は、その場の状況を瞬時にすべて理解したのだ。
「……梟仙殿。彼女が……」
叡明様の言葉を遮るように、お父様は一歩、また一歩と桂花の遺体へと近づき、その顔を凝視した。
「……凛花。その、隣にいる娘が、桂花なのか?」
「そうです。彼女と、彼女の一家が……命を懸けて、私たち家族をもう一度繋いでくれた、恩人です」
私の言葉を聞いた瞬間、お父様はその場にどさりと、大きな両膝を突いた。
そして、静かに瞳を閉じると、深く、深く頭を下げた。
その拳は、血がにじむほど強く握りしめられている。
お父様は心の中で、(今は、どのような言葉を並べても、我が娘の心を救うことはできん……)と悟っていた。
何も語らず、ただ頭を下げ続ける武神の、その荒々しい頬を、一筋の透明な雫が静かに伝い落ちていく。
「梟仙殿……」
叡明様が痛ましげに声を漏らす。
お父様は目を閉じたまま、地を傷つけるような低い声で、自嘲気味に呟いた。
「……どんなに圧倒的な武力があろうとも、我が娘の、たった一人の恩人すら救うことができなかった。……武神などと担ぎ上げられておきながら、なんと滑稽で、無力な存在なのだ、私は……」
その激しい自責の言葉を聞いて、私はやはり、淡々と首を振った。
「お父様のせいではありません。桂花は……自分の信念を最期まで貫いて、私のお母様を守ったのです。最期は、私の作ったお薬を『凄く美味しい』と言って全部食べてくれて……『もう、何の後悔もないよ』って、あの綺麗な星空を見て、笑っていました」
まるでおとぎ話か、他人の思い出話でも語るかのように、私の声はどこまでも冷静で、冷たく透き通っていた。
その不自然なほどの静けさ、あまりの衝撃に心が完全に凍りついてしまっている私の危うさに、叡明様は胸を強く締め付けられた。
叡明様は私に歩み寄ると、床に膝を突き、さっきまで桂花の手を握っていた、私の冷たくなりきった右手を――彼自身の大きな、温かい両手で、そっと包み込んだ。
「凛花。……今は、無理に強がらなくていい。泣いても、いいんだぞ」
彼の大きな掌から、確かな熱が私の皮膚へと伝わってくる。
けれど、私の瞳からは、涙の一滴すら溢れてはこなかった。
「強がってなどいません。本当に、ちっとも悲しくはないのです。……だって、桂花は今、眠っているだけですから」
私は叡明様を見つめ、小さく、フッと微笑んでみせた。そ
の、今にも玻璃の細工のようにパリンと割れてしまいそうな歪な笑顔に、叡明様はかけるべき言葉を見失い、ただ、私の凍りついた手を強く握り締めて寄り添うことしかできなかった。
そこへ、露台の入り口から禁軍の兵が一人、静かに声をかけてきた。
「――梟仙様、叡明様。先ほど、明霞様と華殿の無事を確認いたしました。お二人ともお怪我はなく、現在は雪華様がいらっしゃる本陣へと、すでにお連れしております」
お母様の無事を聞き、お父様は深く、深く溜め込んでいた息を吐き出した。
外の騒乱が収まりゆく中、お父様は静かに立ち上がると、桂花の遺体の前へと歩み寄った。
彼はその大きな腕を、まるで世界で一番壊れやすい、壊してはならない宝物を扱うかのように、極限まで優しく動かした。
彼女の小さな身体をそっと抱き上げると、己の広い胸の中へとしっかりと抱いた。
「香霞の里の長の娘、桂花。お前の誇りと、その美しき魂は……確かに我が娘、凛花が受け取った。お前が命を懸けて守った未来を、我らが必ず繋いでみせる。……さあ、家へ帰ろう」
お父様は桂花をしっかりと抱いたまま、ゆっくりとした足取りで露台を後にした。
その広い背中を、叡明様が私の冷たい手を優しく引いて、支えるようにしながら追っていく。
大きな屋敷の外へ出ると、霧鳴り谷を覆い尽くしていた深い夜霧が、風に煽られてゆっくりと晴れ渡っていくところだった。
東の地平線の向こうから、静かに、けれど圧倒的に美しい、黄金色の朝の光が差し込み始める。
香霞の里を脅かし続けた長い、長い夜が、今、名実ともに明けたのだ。
しかし、優しく降り注ぐ朝日の光を浴びながらも、私の右手のひらに残された、あの「桂花の最後のぬくもり」の記憶だけは、冷たく、凍りついたまま、いつまでも消え去ることはなかった。




