偽りの笑顔と、親友の一生のお願い
手早く、しかし正確に。
私は泰恒様の調薬室で、押し寄せる敵を足止めするための特製の薬を調合していた。
「よし……これくらいの量があれば、十分に足りるはずね」
完成した薬瓶を懐にしまいながら、私はふと、大きく開け放たれた窓の向こうを見つめた。
二人がこの屋敷を飛び出してから、それなりの時間が経過している。
私がお母様を託した、たった一人の大切な親友。
そして、ようやく再会できたお母様。
(二人とも、今頃どうしているかしら……。無事に逃げ切れていればいいけれど)
胸の奥をざわつかせる不穏な予感を振り払うようにして、私はついさっきまで三人で言葉を交わしていた部屋へと戻った。
部屋の窓から遠くの『落差の崩れ橋』の方角を見下ろすと、いまだに激しい怒号と金属音が響き渡り、松明の光が激しく揺れている。
戦火は衰えるところを知らない。
だが、その乱戦の渦中に、私は見覚えのある堂々とした紋章が刻まれた旗が翻るのを目撃した。
「――あれは、禁軍の旗……!」
間違いない。
こちら側へ軍を送ってくれたのだ。
もうすぐそこまで助けが来ているという事実に、私は固く強張っていた胸を少しだけ撫で下ろした。
その時だった。
背後で、部屋の重い木扉がバタンと静かに開いた。
「――凛花、お待たせ!戻ってきたよ」
入ってきたのは、桂花だった。
彼女はいつもと変わらない、ひだまりのような温かい笑顔を私に向けていた。
けれど、その声音はどこか微かに震えていて、あまりにも無理をして笑っているように私の目には映った。
「桂花……!良かった、無事だったのね。何かあったの?」
「ううん、何も。……ちゃんと、明霞さんは今頃、安全な場所へ向かって走っているはずだよ」
「はず……?途中で、お母様とはぐれてしまったの?」
私の問いかけに、桂花は首を横に振った。
「ううん、違うの。落差の崩れ橋のすぐ近くの林でね、運良く華ちゃんに会えたんだ。それで、私の代わりにお母様を安全なところへ連れて行ってって、お願いしたの」
「あ、そうそう!叡明様もすぐ近くまで来てくれているみたいだよ!周りがものすごい激しい戦いになっちゃってて、直接は会えなかったんだけどね。……えへへ、だからきっと大丈夫。この戦いは、もうなんとかなるよ」
桂花はそう言って、再びいたずらっぽく、くしゃりと顔を綻ばせてみせる。
「ええ、私もさっき窓から見ていたら、禁軍の旗が見えたわ。叡明様も、お父様も、私たちのために戦ってくれている……。……って、桂花?」
話しながら彼女に一歩近づいた瞬間、私の鼻腔を、生々しい血の匂いが掠めた。
桂花は不自然に、自身の腹部のあたりを両手で隠すように押さえている。
よく見ると、彼女が着ている目立たない暗い色の衣の、その手の隙間から、どろりとした黒いシミが急速に広がっているのが分かった。
「桂花、あなた……それ、怪我をしているじゃない!」
「えへへ……やっぱりバレちゃったか。凛花に心配かけないように、部屋に戻る前に急いで着替えて隠したつもりだったのにな」
桂花は困ったように眉を下げて笑う。
私は頭が真っ白になりながら、彼女の元へ駆け寄った。
「傷を見せて!今すぐ手当てをするから、早く!」
「大丈夫、大丈夫だよ凛花。ただの擦り傷だってば」
「嘘を言わないで!!」
私の叫び声が、静まり返った部屋に響く。
「だって……あなたのその笑顔、完全に引きつっているわよ。私を誰だと思っているの?そんな嘘が、私に通じるわけがないでしょう!」
「……もう、しょうがないなぁ、凛花ったら。本当に、何でもお見通しなんだから」
桂花はあきらめたように小さくため息をつくと、お腹を押さえていた両手を、ゆっくりと退けた。
その衣服の裂け目から覗いたものを目にした瞬間、私は息をすることすら忘れた。
「なによ……これ……っ」
それは、怪我などという生易しいものではなかった。
鋭利な刃物によって、彼女の細いお腹が、ざっくりと深く裂かれていた。
溢れ出る鮮血は止まる気配を完全になくし、彼女の命そのものが、その赤に混ざって体外へと流れ出し続けている。
「分かって、くれたでしょ……?もう……手遅れ、なの」
桂花の口から、残酷な現実が静かに告げられる。
私は頭を殴られたような衝撃に襲われ、その場に膝から崩れ落ちてしまった。
床にしがみつく私の手は、ガタガタと酷く震えていた。
「どうして……どうしてこんなことに。だって、お母様は安全な場所にいるって。華も近くにいたはずなのに。……私は、何を間違えたの?何を選択すれば、良かったの……」
激しい後悔と自己嫌悪が、私の心を容赦なく打ち砕く。
私のせいで、私がもっと早く別の手を打っていれば。
絶望に打ちひしがれる私を見下ろしながら、桂花は血の気の失せた唇を動かして、静かに経緯を語った。
「実はね、屋敷を出て逃げる途中で、運悪く賈鴆の手下の一人に見つかっちゃったんだ。その手下が刃物を振り回して、明霞さんが斬られそうになって……。だから私、とっさに庇ったの。その直後に華ちゃんが手下を倒して助けてくれたから、明霞さんは無傷だよ。だから……ね?」
「私のせいだ……。私が、一人で強がってここに残ったりしないで、最初から一緒に逃げていれば。近くに禁軍だって来ていたのに、私が、全部、全部間違えたから……」
思考が視界を遮り、喉の奥が引き裂かれそうになる。
「違うよ、凛花」
「だって――!」
私がなおも自分を責めて言い返そうとした、その瞬間。
ふわりと、私の身体が温かいものに包まれた。
桂花が、血に染まったその身体で、床に伏せる私を優しく抱きしめてくれたのだ。
「落ち着いて、凛花。これは絶対に、凛花のせいなんかじゃないよ」
耳元で、彼女のいつもの、包み込むような優しい声が響く。
「だって、あの時言ってくれたでしょ?『親友のあなたにお母様をお願いしたい』って。私ね、その言葉が、すっごく嬉しかったんだよ……?凛花が私のことを、『親友』って言ってくれたの。私にとっても、凛花はたった一人の、大切な親友だもの。だから、何があっても守りたかったの」
桂花は、私の背中を小さな手で、ぽんぽんとあやすように叩いた。
「それに、凛花が私を励ましてくれたじゃない。立ち止まっちゃいけないって。お父様も、お母様も、里の皆が命を懸けて守って、繋いでくれた未来なんだよ?だから、私もそれを守りたかった。これは、私が自分の信念のために、自分で選んでやったことなの。だから……凛花は、自分を責めちゃダメ」
彼女のどこまでも真っ直ぐで優しい言葉の雨が、私の荒れ狂う心を、静かに、静かに落ち着かせていく。
私は彼女の胸の中で、ただ子供のように小さく頷くことしかできなかった。
「……ありがとう、桂花。取り乱してごめん。あなた自身が、一番つらくて、痛いはずなのに……」
私はそっと彼女の身体から離れ、その痛々しい顔を見つめた。
桂花はふふっと力なく笑い、自分の顔を手の平で仰いでみせる。
「ふふ、なんだか不思議なんだけどさ……凛花と話していたら、あんなに痛かったお腹の痛みが、だんだん薄れてきちゃったみたい!」
「桂花ったら……。今、私にできることはない?何でも言って。私にできることなら、何だってするから……っ」
すがるような私の問いかけに、桂花は少しだけ目をごくっと丸めた。
そして、私の激しく震える両手を、彼女の血の滲む小さな両手で、そっと、包み込んだ。
申し訳なさそうに、けれど、この上なく愛おしそうに、彼女は最期の微笑みを私に向ける。
「じゃあ……親友からの、一生のお願い、聞いてもらえるかな?」
「なにかしら。言って、何でも叶えるわ」
「ごめんね、凛花……。こんなことを頼んだら、凛方をすごく苦しめちゃうのは、よく分かっているの。でもね……」
桂花はそこで一度、深く、息を吸い込んだ。その瞳が、真っ直ぐに私の目を捉える。
「――凛花の作る、あの『優しいお薬』で、私は静かに眠りたいな」
その親友のあまりにも切なく、あまりにも純粋な最期の願いは、私の心に、これまで経験したどんな刃よりも、深く、深く突き刺さるのだった。
世界で一番大切な人の命を奪うために求められている。
『自分で作った毒では、誰も死なせない』
かつて暗闇の中でそう強く心に誓った私の毒が。




