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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
香霞の里編:結末

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鬼神の矛、因果の終着

「くそう! 何もかも、何故これほどまでに上手くいかないのだ……ッ!」


 香霞こうかの里の支配者として君臨していた商人、賈鴆カチンは、自身の豪華な私室の机を何度も激しく叩きつけていた。


 その顔は焦燥と怒りで醜く歪み、額からは嫌な汗が次々と吹き出している。

 

 霧鳴り谷の方角から響いた、あの天地を揺るがす大爆音。


 あれ以来、そちらに向かわせた主力部隊からの定時の伝令が、不気味なほど完全に途絶えてしまったのだ。


 それだけではない。


 今や屋敷のすぐ後ろには、梟仙キョウセン率いる、どれだけの数がいるのかも分からない禁軍の精鋭たちが、怒涛の勢いで迫り来ているという。


「賈鴆様!もう、これ以上は防ぎきれません!お逃げください、今すぐ外へ……っ!」


 血相を変えて飛び込んできた手下の悲鳴のような進言に、賈鴆はギリ、と奥歯を噛み締めた。


「……チッ、仕方のない無能どもめ!ああ分かった、一度退くぞ!幻夢香の権益で大儲けする計画は一時お預けだが、財貨と私の才覚さえあれば、またどこか別の場所でいくらでも建て直せる!」


 商人の強欲さと執念だけで立ち上がろうとした、まさにその時だった。


 さらにもう一人、全身を血に染めた手下が転がり込むようにして入ってきた。


「伝、伝令!正面の防衛線が完全に崩壊しました!梟仙が……あの化け物が、誰にも止められませんっ!!」

「何だと……!?」


 賈鴆は信じられない思いで、私室から物見の台へと飛び出した。


 そして眼下に広がる戦場の様子を見下ろした瞬間、彼はあまりの恐怖に言葉を失った。

 

 そこには、およそ人間の仕業とは思えない、凄まじい地獄絵図が広がっていた。


 賈鴆が絶対の自信を持って集め、私兵として育て上げてきたはずの手下たちが、まるで秋の強風に煽られた木の葉のように、軽々と宙を舞っているのだ。


 凄まじい肉体の破壊音と共に、鮮血の飛沫が夜の闇に美しく、かつ残酷に飛び散り、手下たちが次々と地面へと叩きつけられて動かなくなっていく。

 

 その虐殺の嵐の中心にいるのは、松明の赤々とした光に照らされた、まさに「鬼神」そのものの姿をした一人の巨漢だった。


 武神・梟仙。

 

 彼が巨大な矛をただ一振りするだけで、十数人の武装した手下が武器ごと一瞬で弾き飛ばされる。


 後ろに控えている禁軍の精鋭たちが、わざわざ手出しをする必要すら一切ない。


 たった一人で軍勢を蹂躙する、圧倒的かつ絶対的な武力がそこにあった。


「数だけはいっちょ前に揃えたようだが、ただそれだけだな」


 手下たちの死体の山を堂々と踏み越えながら、梟仙の地響きのような声が戦場に轟く。


「どれだけ群れをなして向かってこようが、この梟仙を倒すことなど、万に一つも不可能なのだ!」


 その時、梟仙のギラリと光る鋭い眼光が、物見の台からこちらを見下ろしている賈鴆の姿を正確に捉えた。


「――見つけたぞ、貴様が元凶か」


 梟仙は低く呟くと、愛馬の鞍から静かに地面へと降り立った。


 そして、先ほどまでの激しい暴風のような勢いとは打って変わり、一歩、また一歩と、極めてゆっくりとした足取りで賈鴆のいる方角へと歩み寄り始めた。

 

 その静かなる接近が、戦場にいる誰よりも恐ろしい重圧となって賈鴆の全身を縛り付ける。


「ひっ、あ、悪魔め……!化け物が、これでも喰らうがいいッ!!」


 賈鴆は恐怖のあまり腰を抜かしそうになりながらも、懐から一つの不気味な小瓶を取り出し、梟仙に向けて思い切り投げつけた。


 中に入っていたのは、過去に黒蓮が使った極限まで濃縮した『幻夢香』を基に作った劇毒の煙だ。

 

 パリン、と小瓶が割れる音と共に、辺り一面に不気味な紫色の濃霧が立ち込め、歩み寄る梟仙の巨体を完全に包み込んだ。


「ハハハ、勝った!いかに武芸に秀でていようとも、この劇毒を吸い込めば、人間ならば一瞬で死に絶えるわ!」


 賈鴆は物見の台の手すりを掴みながら勝ち誇ろうとした。

 

 しかし――その下劣な笑みは、即座に凍りつくことになる。


 不気味な紫色の毒煙の中を、梟仙は何事もなかったかのように、平然と歩き続けていた。


 彼が手にした大矛を、ただフッと一振りしただけで、強烈な一陣の風の風圧が巻き起こり、立ち込めていた劇毒の霧は一瞬にして跡形もなく吹き飛ばされ、かき消されてしまったのだ。

 

 梟仙の衣服や皮膚には、傷一つ、乱れ一つすら生じていない。


「……この程度の小細工で、私の歩みを止められるとでも思ったか。甘いな」


 梟仙は冷徹極まる瞳で賈鴆を見据え、言い放った。


「私を本気で止めたいというのならば、せめて一国を動かす軍勢を連れてくるんだな」

「な、なぜ効かない……!?貴様、本当に人間なのか……っ!?」


 賈鴆は恐怖に顔を完全に歪ませ、後ずさりしながら近くにいた手下の身体を無理やり引っ張り、自分の「盾」にしようとした。

 

 だが、近づいてくる梟仙の威圧感は、すでに常人の耐えうる限界を超えていた。

 

 恐怖で完全に理性を失った賈鴆は、手下を強引に引き寄せようとした拍子に足元を狂わせ、高欄の手すりを越えて自ら下の石畳へと無様に転落したのだ。


「がはっ……あ、あぁ……っ」


 這いつくばり、泥にまみれて命乞いをする賈鴆の首元を、梟仙は大きな手で容赦なく掴み上げ、まるで軽い荷物のように頭上へと持ち上げた。

 

 息が詰まり、顔を真っ赤にする賈鴆の至近距離に、梟仙の鬼のような顔が近づく。


「貴様がこの世界で犯した最大の罪は……我が大切な恩人の里を荒らし、私の愛する妻と娘の未来を奪おうとしたことだ。その重罪、自らの命を以て支払うがいい」


 冷徹に、かつ絶対の怒りを込めて言い放ち、命乞いをする隙すら与えなかった。

 

 梟仙は賈鴆の身体を容赦なく空中へと放り投げると、渾身の力を込めて大矛を真っ直ぐに突き出した。


 ズドオオォォォンッ!!!


 空間を爆裂させるほどの圧倒的な一撃が、賈鴆の身体を木っ端微塵に粉砕する。


 香霞の里を長年脅かし、多くの人々を苦しめ続けた元凶は、その肉体ごと跡形もなく消し飛ばされ、ここに完全なる引導を渡された。


 自分たちの親玉が、ほんの一瞬で文字通り粉砕される光景を目の当たりにした残党たちは、完全に戦意を喪失した。


 彼らはガタガタと震えながら武器をその場に落とし、後ろに控えていた禁軍の兵たちによって、一網打尽に捕縛されていく。


 賈鴆が討伐されたことを知らせる合図の狼煙が、夜空へと高く打ち上がった。

 

 遠くの本陣からそれを見上げていた上級妃の雪華セッカは、上品にクスリと微笑むと、手にしていた美しい扇子をパチン、と心地よい音を立てて閉じた。


「……終わったようね。あとは残党を綺麗に狩り取るだけかしら」


 賈鴆側の激しい戦いが完全に終結し、静寂が戻りつつある戦場で、梟仙は静かに大矛を引いた。


 そして、凛花リンカたちがいるはずの、あの里の大きな屋敷の方角をじっと見上げる。


明霞メイカ、凛花……無事か。……今、行くぞ」


 梟仙は愛馬の手綱を強く握り締めると、最愛の家族が待つ場所へと向かって、一陣の風のごとく馬を走らせるのだった。

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