林間の凶刃、ひだまりの覚悟
霧鳴り谷の主力部隊が全滅したことなど露ほども知らない賈鴆の手下たちは、もう一つの防衛線である『落差の崩れ橋』から、怒涛の勢いで押し寄せていた。
必死に応戦する里の守衛たちの防衛線が今にも決壊せんとしたその時、裏道から駆けつけた叡明率いる禁軍が、横合いから猛然と戦場へと参戦した。
「遅れるな、者ども!賊を一人残らず叩き斬れ!」
叡明は鋭い号令と共に、自ら最前線へと突撃した。その剣技はまさに一級品。
一切の無駄を削ぎ落とした神速の縦一文字が、迫り来る手下たちを次々と一撃のもとに斬り伏せていく。
吸い込まれるような完璧な足さばきと容赦のない一振りに、敵の手下たちは恐怖に顔を歪めた。
「な、なんだあの男は……!?禁軍の隊長か!?強すぎる、化け物め!」
敵が怯み、防衛線にわずかな空白が生まれた瞬間を、もう一人の怪物が逃すはずはなかった。
頭にずらした兎のお面を揺らしながら、華は橋の欄干や岩の死角を、まるで重力を忘れたかのように軽やかに跳び回っていた。
その細い指先には、月光を反射して微かに光る極細の鋼糸が張り巡らされている。
叡明が正面の敵を圧するその死角から、一人の手下が不意打ちを狙って刃を振り上げた。
だが、その刃が叡明に届くより早く、闇の中から放たれた暗器が手首の筋を正確に断ち切る。
さらに、目にも留まらぬ速さで操られた鋼糸が首筋へと巻き付き、手下は声も上げられずに物音ひとつ立てずに崩れ落ちた。
激しい乱戦の中で刃を振るいながら、叡明はその尋常ならざる気配の正体を、驚愕と共に目撃していた。
(……ただの侍女ではないと察してはいたが、この凄まじい身のこなし、そして一切の躊躇のない動き出し……。並の暗殺者すら遥かに凌駕している。桂花の侍女というのは、世を欺く仮の姿か)
一瞬だけ背筋に冷たいものが走ったが、叡明はすぐに思考を切り替えた。
今は、これほど頼もしい味方はいない。
彼は華に背中を預け、さらに敵の奥深くへと踏み込んでいく。
華もまた、返り血を浴びながら平然と剣を振るう若き皇子の武力に、内心で舌を巻いていた。
「へぇ、どっかのお偉いさんかと思ったら、めちゃくちゃ強いじゃないっすか!」
「お前こそ、その不気味な暗殺術をどこで学んだ!」
「あはは、あーしの秘密は高くつくんで、そう簡単には教えられないっすよ!」
いつもの調子ではぐらかしながら、華の鋭い視線が戦場の端を捉えた。「ん?」と細い眉をひそめる。
「あっちの林に逃げていく奴らがいる。……逃がさないっすよ」
華はふわりと地を蹴り、影のようにその林へと姿を消した。
――同じ頃。
風に乗って漂う濃密な血の匂いをたどるようにして、林の奥を必死に走ってきた桂花と明霞。
二人がようやく落差の崩れ橋の近くへと到着した時、目の前に広がっていたのは、凄まじい怒号と金属音が交錯する地獄のような戦場だった。
里の守衛、禁軍、そして敵の手下たちの死体が累々と転がり、生々しい戦場の匂いが鼻を突く。
「……なんとかここまで来たけれど、そこら中で戦ってる。この先に進むのは、ちょっと難しいかも……」
「そうね……。一旦、あちらの鬱蒼とした林の中に身を潜めましょう。状況が変わるのを待つわ」
明霞の提案に桂花は頷き、二人は息を殺して木々の陰へと滑り込んだ。
しかし、運命はどこまでも残酷だった。
乱戦の混乱から逃れてきた敵の手下の一人が、偶然にも二人の潜む草むらへと踏み込んできたのだ。
「――あぁ!?こんなところに女が隠れてやがる!」
男は狂乱した目で叫び、ギラリと光る刃物をめちゃくちゃに振り回して明霞へと襲いかかった。
「危ない……っ!」
とっさに、桂花の手が動いた。
彼女は自分の身体を投げ出すようにして、明霞の前に割り込み、その細い身体を強く押し込んで庇った。
肉を切り裂く、嫌な重い音が林間に響く。
「うっ……あ、あぁ……っ」
桂花の腹部を、鋭い刃が深く深く切り裂いていた。鮮血がドッと溢れ出し、彼女の衣装を赤く染めていく。
「おのれ、死ね!」
男が止め(とどめ)を刺そうと再び刃を持ち上げた、その瞬間。男の首筋に深々と暗器が突き刺さり、男は言葉もなく白目を剥いて倒れ込んだ。
「桂花様!明霞様!なんでこんなところにいるんすか!?」
木々を飛び越えて現れた華が、驚愕に顔を歪めて駆け寄ってきた。
「あなた……その姿は……」
返り血に濡れ、暗器を構える華の異様な姿に、明霞が息を呑む。
華は人差し指を口元に当てて「シー」と小さく制すると、すぐに桂花の元へ膝をついた。
「桂花様!冗談抜きで酷い怪我じゃないっすか……!すぐに禁軍のところへ!」
華が桂花を抱きかかえて橋の方へと視線を向けたが、次の瞬間、絶望が彼女の表情を凍りつかせた。
裏道から回り込んできた賈鴆の別動隊が次々と増援として現れ、叡明の禁軍を完全に包囲していたのだ。
周囲は凄まじい乱戦と化しており、一歩も近づける状態ではない。
「まずいっす……。叡明様たちもあの数の敵に完全に囲まれてて、こっちを助ける余裕なんて微塵もない……!」
「華ちゃん……お願い……っ」
激痛に顔を歪めながらも、桂花は震える手で華の腕を強く、強く掴んだ。
その瞳には、涙ではなく、あの泰恒と菊花から受け継いだ決死の『長の覚悟』が宿っていた。
「お母様を……明霞さんを、絶対に安全なところへ連れて行って……。ここは叡明様たちが敵を引きつけてくれているから、今なら逃げられるわ」
「でも、桂花様はそんな重傷で……!」
「私は大丈夫……!凛花のところへは、私が迎えに行くって……約束、したんだから……っ!」
迫り来る死の影を振り払うように、桂花は華に明霞の未来を託した。
華は、桂花のその嘘偽りのない強い目を見つめ、自身の胸の奥にある暗殺者としての冷徹な心を、激しい感情が揺さぶるのを感じていた。
「……分かりました。あの時のお願い、あたしが絶対に、果たしてみせるっす」
「うん……!ありがとう……!」
腹部の激痛に耐えながら、桂花はいつもと変わらない、ひだまりのように温かい、まぶしい太陽のような笑顔を華へと向けた。
華もまた、泣き出しそうな心を必死に堪え、彼女に向けられる最高の一杯の笑顔を返した。
「桂花、どうか無事で……!」
明霞は桂花を強く抱きしめた。
「任せてください……。旅の時みたいに凛花を一人にさせたくないから」
桂花は立ち上がり、愛おしそうに二人に手を振って、屋敷の方角へと走り出した。
明霞と華も、祈るように手を振り返す。
その時、明霞は自分の手の平を見た。
抱きしめた時に付着した、桂花の温かくも切ない、大量の血がべっとりと滲んでいる。
「桂花……、あの子、あんなに血を流して……」
「……覚悟の上っす。桂花様は……いっつも無理して、あんな風に笑顔を作るんですよ……っ」
華の声が、微かに震えていた。
「叡明様たちが敵を惹きつけてくれている今なら、あたしが一旦ここを離れても、明霞様を連れて確実に逃げ切れるはずっす。まずは、安全な場所まで移動するっすよ」
二人の気配が遠ざかる中、桂花は一人、薄暗い山道を歩いていた。
「待っててね、凛花……。今、行くから……っ」
うっ、と激しい眩暈と激痛が襲い、桂花は途中で派手に地面へと転がった。
意識が遠のきそうになる。だが、彼女は折れそうな心を奮い立たせ、泥にまみれながらも立ち上がった。
「もう少しで……たどり着ける。大丈夫、まだ動ける……」
溢れ出る血を、小さな両手で必死に押さえつけながら。
最愛の親友の元へと向かって、桂花は一歩、また一歩と、孤独な夜道を歩み続けるのだった。




