託された背中、決死の調薬
「――霧鳴り谷の方……。まさか、あのお二方……っ」
夜空を赤く染めたあまりにも巨大な爆炎を見つめ、華はいつもの軽薄な笑みを完全に消し去っていた。
お面の奥の瞳が、切なさと驚愕に激しく揺れる。
長の泰恒と菊花が、己の命と引き換えに敵の主力を道連れにしたのだと、彼女は本能で理解していた。
華はすぐさま振り返り、隣に立つ若き皇子へと鋭い視線を向けた。
「叡明様!急いで屋敷に向かいましょ!今の爆発は、こちらで仕掛けた最後の罠……となれば、これを突破したか、あるいは別の道筋を進んでいた敵が、もうそこまで来てるはずなんす!」
「何だと!?分かった、急ぐぞ!残りの者は私に続け!」
叡明は即座に太刀を引き抜き、里の中を進む速度をさらに上げた。
だが、案内する華が周囲の木々のざわめきや気配を察知し、不意に息を詰める。
「まずいっす、叡明様!あれを見て!」
「……っ!」
華が指差した先――もう一つの防衛線である『落差の崩れ橋』の方角から、松明の明かりが次々と溢れ出し、こちらの道筋へとなだれ込んできているのが見えた。
狂乱した賈鴆の手下たちが、すでにかなりの軍勢で防衛線を突破し、屋敷の周囲へと広がり始めている。
(凛花……!無事でいてくれ、頼む……っ!)
叡明は心の中で、引き裂かれそうなほどの焦燥を覚えながら、名前も知らぬ最愛の女官の無事を祈った。
二人が林を抜けると、そこはすでに敵味方が入り乱れて刃を交える、凄まじい乱戦の真っ只中だった。
「敵を一人残らず斬り伏せろ!屋敷へは一歩も通すな!」
叡明は雷霆のごとき咆哮と共に、正面から敵の群れへと突撃していった。
華もお面の裏で鋭い牙を剥き、
「思った以上に敵が多いっすね。これは本当にまずい……急ぐっすよ!」
細い鋼糸を指に絡め、冷徹に戦場へと躍り出た。
――その頃、激しい戦火に包まれつつある泰恒の屋敷の上階。
明霞に促され、窓から落差の崩れ橋の惨状を見下ろしていた凛花と桂花の顔には、かつてないほどの緊迫感が走っていた。
「まずいわ……。ここに敵がやってくるのも、もう時間の問題ね」
「うん……私たちも、ここを出て動かないと。でも、3人でまとまって動くのは危険だよね?」
桂花の言葉に、凛花は冷静に戦況を見極めて頷いた。
「確かにそうね。3人で一緒に動けばそれだけ目立つわ。もし途中で手下たちに見つかって襲われたら、守りながら戦うのは難しいし、最悪の場合、乱戦の中でバラバラに分断されてしまう可能性が高いわ」
緊迫した沈黙が流れる中、二人の母親である明霞が、毅然とした態度で娘たちの前に進み出た。
「あなたたち二人で、先に逃げて頂戴。私はここに残るわ」
「ダメですよ、明霞さん!」
桂花が即座に叫び、明霞の手を強く握りしめた。
その瞳からは、再び大粒の涙が溢れそうになっている。
「だって、やっとこうして再会できたんだよ!?家族がバラバラになる姿なんて、私はもう絶対に、二度と見たくない!だから、行くなら全員で――」
「桂花。……それなら、私がここに残るわ」
凛花の静かな、しかし確固たる決意を秘めた声に、桂花は言葉を失って驚愕の目を向けた。
「凛花……何言ってるの!?敵がすぐそこまで来てるんだよ!?」
「分かっているわ。でも、私ならまだ、一人の方が身軽だし、何とかする方法はいくらでもある。何より、正面には私のお父様(梟仙)がいるし、……きっと、あの叡明様だって、もうすぐ近くまで来てくれているはずだから」
凛花は優しく、しかし有無を言わせぬ強さで桂花の肩を掴み、その大きな瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だから……だから、親友のあなたに、私のお母様をお願いしたいの」
その言葉は、単なる役割分担ではなかった。
世界でたった一人の「親友」への、絶対的な信頼の証だった。
桂花は溢れそうになる涙をグッと堪え、凛花の手を強く握り返した。
「……親友、か。うん……分かった、任せて!命に代えても、明霞さんをお守りするよ!」
「凛花、本当に大丈夫なのね……?」
明霞が痛ましげに娘の顔を覗き込む。
凛花はそんな母親に、いつした後宮での日常のように、ふふっと柔らかく微笑んでみせた。
「うん、大丈夫。お母様には、一足先に安全な場所へ避難していてほしいの。桂花の言う通り……私たち、やっと再会できたんだから。後で必ず、会うから」
「……分かったわ。必ず、必ず戻ってくるのよ。桂花、急ぎましょう」
「はい!凛花、あとで絶対に迎えに来るからね!」
「ええ、気を付けてね」
二人は深く頷き合うと、部屋を飛び出し、階段を駆け下りて外の闇へと向かっていった。
凛花は、窓から二人の小さな背中が、夜の林へと無事に走っていくのを見届けると、ふぅ、と深く息を吐き出して気持ちを切り替えた。
「さて。確かこの階の奥に、泰恒様が薬草や毒草を蓄えている調薬室があったはずね」
ここからは彼女の独壇場だ。
数多の敵を迎え撃ち、少しでも時間を稼ぐため、凛花は静かな足取りで、廊下の奥へと歩みを進めていった。
一方、屋敷を飛び出し、裏手の険しい山道を全力で走っていた桂花と明霞。
「明霞さん、結構な速さで走ってるけど、大丈夫……っ?」
「ふふ……流石に、動き回っていなかった身体には、少し息が切れるわね。でも大丈夫、行きましょう!」
明霞は気丈に答え、桂花の先導に従って一歩一歩、確実に地面を蹴った。
しかし、二人が林の深奥へと進むにつれ、夜風に乗って、生々しく、どろりとした不穏な『血の匂い』が徐々に周囲へと漂い始めていた。




