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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
香霞の里編:結末

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122/143

霧鳴りの灯火、ふたつ散りて

 香霞コウカの里の命運を分ける決戦の地――霧鳴り谷。

 

 深く立ち込める濃霧の向こうから、無数の不穏な足音と松明の光が近づいてくるのを、里の長である泰恒タイコウは静かに見つめていた。


「……もう、すぐそこまで迫っているな」

「ええ。凛花リンカさんたちが仕掛けてくれた罠が発動した後も、奴らは臆せず突撃してくるでしょうね。……でも、まだここには罠用の爆薬が、かなりの量残っているわ」


 病み上がりで青白い顔をしながらも、妻の菊花キッカが足元に置かれた木箱を見上げて毅然と微笑む。

 

 泰恒はその箱を見つめ、力強く頷いた。


「ああ。これだけの量だ、一気に使えば谷ごと敵を吹き飛ばす、かなりの爆発を起こせるだろう」

「ええ、最初の罠を潜り抜けてきた命知らずどもに、特大の引き出物をくれてやりましょう」


 夫婦の背後に控える守衛たちが、決死の表情で一歩前に出た。


「泰恒様、菊花様。我ら守衛、命に代えてもお二人とこの里をお守りいたします。どうか、無理な突撃だけはなさらず、我々の後ろに……!」

「いいえ。私たちも命を懸けるわ、あなたたちだけに背負わせはしない」

「ああ、もとよりこの場所から引く気などない。我が一族の誇りにかけてな」


 泰恒の力強い言葉に、守衛たちは一瞬だけ目を見張ったが、すぐに覚悟を決めた真っ直ぐな顔になり、拳を握りしめた。


「……分かりました。最期まで、お供いたします!」


 その直後だった。

 

 霧の向こうから、地鳴りのような雄叫びが響き渡り、賈鴆カチンの手下たちが一斉に霧鳴り谷の狭い通路へと突撃を始めた。


 獰猛な獣のような群れが、一気に押し寄せてくる。


 だが、彼らが橋や通路に足を踏み入れた瞬間――凛花と桂花ケイカが命を懸けて仕掛けた罠が、容赦なくその牙をむいた。


 ドガアアァンッ!!

 

 通路のあちこちで、仕込まれていた小規模な爆発が火を吹き、敵の先頭集団が派手に夜空へと吹き飛んだ。

 

「怯むな!進め!」と叫び、煙を割って進もうとした者たちには、足元から噴き出した痺れ毒の煙が襲いかかる。


「ぎゃあぁっ!?体が、体が痺れて動かせねえ!」


 手下たちが次々に白目を剥いて頽れていく。


 さらに、精巧に偽装されていた落とし穴が開き、十数名の手下が一度に暗黒の底へと呑み込まれていった。

 

 そして極めつけは、手下たちが我先にと殺到した、谷に架かる細い木橋の手前側だった。


 重みによって留め金が外れる、谷底へと落とす仕掛けが作動。


「うわあああぁぁぁっ!?」


 メリメリと音を立てて橋が崩れ落ち、無数の悲鳴と共に、手下たちは深い谷底たにぞこへと吸い込まれていった。


「今だ、放て!奴らを一歩も渡らせるな!」


 混乱する敵に向けて、里の守衛たちが一斉に弓を引いた。


 放たれた矢の雨が、右往左往する手下たちを正確に射抜いていく。

 

 泰恒の正確無比な強弓が、霧の向こうの指揮官らしき男の胸を容赦なく貫き、菊花が鋭い観察眼で次の標的を指し示してそれを完璧に支える。


「くそっ、まともに進めねえぞ!狭い橋に罠と弓だと!?」

「盾を持っている奴は前に出ろ!罠だって尽きぬわけではないはずだ、数で押し潰せ!」


 敵もさるもの、賈鴆に「退けば殺す」と脅されている狂乱の手下たちは、仲間の死体を踏み越えて、盾を掲げながら徐々に距離を詰めてきた。


「……やはり、臆せず来たか」

「それでも、確実に数は減っているわ」


 やがて、凛花たちの仕掛けたすべての罠が発動しきり、守衛たちの矢もついに底を突いた。

 

「剣を抜け! 迎え撃つぞ!」

 

 泰恒の号令と共に、守衛たちは剣を引き抜き、崩れかけた橋の上での激しい白兵戦が始まった。


 最初は地の利を得た里側が優勢に立ち回っていた。


 しかし、敵の圧倒的な多勢と、後がない捨て身の突撃の前に、徐々に防衛線が押し込まれ始める。

 

 泰恒の矢もついに尽き、彼は弓を投げ捨てて自ら剣を執り、前線で守衛たちと共に刃を交えたが、多勢に無勢。敵の凶刃が、泰恒の身体にいくつもの赤い傷を刻んでいく。


 病み上がりの菊花も、必死に懐から毒煙を撒いて夫を支えるが、激しい呼吸の乱れと共に、とうとう身体の限界が訪れ、その場に膝をついてしまう。


「長の首を上げろ!奴らを倒せば、あの豪奢な屋敷はすぐそこだぞ!」


 敵の指揮官が勝ち誇ったように叫び、残る手下の精鋭たちが一斉に、満身創痍の泰恒と菊花へ向かって殺到する。


「皆、下がれ!爆薬の位置まで引くんだ!」


 泰恒は最後の守衛たちを後退させ、あらかじめ用意していた「残りの爆薬」の箱がある位置まで敵を引きつけた。


 そして、安全な距離から、箱へと繋がる長い導火線に松明の火を放つ。

 

 パチパチと音を立てて火花が走り、夫婦は勝利を確信した。


 ――しかし。

 

 霧鳴り谷のあまりにも深い濃霧が、最悪の形で牙をむいた。

 

 立ち込める容赦ない湿気によって、走っていた導火線の火が、手下たちの目の前でぷつりと、無情にも消え去ってしまったのだ。


「ハハハ!導火線が湿気ってやがるぞ!運がねえなあ、長殿!」


 敵の指揮官が下劣な笑い声を上げ、一気に距離を詰めてくる。


 離れた場所からの点火は、もう不可能。


 敵の群れがこの爆薬の箱を通り過ぎてしまえば、もう屋敷を、そして娘たちを守り切る術はない。


 その絶体絶命の瞬間。泰恒と菊花は、静かに視線を交わした。

 

 言葉はなくとも、二人の意志は完全に一致していた。


 泰恒は満身創痍の身体を引きずり、菊花の隣に並び立つと、空いた手で、彼女の細い手を強く、そしてこの上なく優しく握りしめた。


「菊花……お前と最期まで、共に戦えて幸せだった」

「ええ、私もよ、泰恒。……あの子の、桂花の未来は、きっと明るいわ」


 泰恒は振り返り、残ったわずかな守衛たちに、地を這うような烈火の如き声で一喝した。


「下がれ!桂花たちを、娘を頼む――ッ!!」


 次の瞬間、泰恒は押し寄せる敵の精鋭の群れを、自らの肉体で真正面から受け止めた。


 凄まじい執念で敵の主力を組み伏せ、爆薬の箱の真上で、完全にその動きを足止めする。


「な、何を企んでいやがる!?離せ、この狂人が!」


 菊花は涙をすべて呑み込み、毅然とした、この世のものとは思えないほど美しい微笑みを浮かべると、手元に残った松明の赤々とした火を――直接、爆薬の箱へと突き立てた。


「我が娘の往く道を、遮らせはしない」


 一瞬の、痛いほどの静寂。

 

 直後、霧鳴り谷に、この世の終わりかと思うほどの凄まじい大爆音と地鳴りが轟き渡った。


 ドグオオォォォンッ!!!!


 谷全体を激しく震わせる大爆破。


 霧鳴り谷の橋は木っ端微塵に吹き飛び、周囲のがけもろとも凄まじい大崩落を起こす。

 

 賈鴆の本隊は、凄まじい爆炎と、天から降り注ぐ巨石の雨に巻き込まれ、悲鳴を上げる暇すらなく深い谷の底へと一網打尽に消え去っていった。


 激しい土煙と赤黒い炎が、霧の谷を地獄の業火のように染め上げる。

 

 その炎の中で、香霞の里を治めた優しき夫婦は、里と、最愛の娘の未来を守り抜き、静かにその短い命を散らせたのだった。


 ――同時刻。

 

 遠く離れた泰恒の屋敷の上階。窓の外をじっと見つめていた桂花は、遠くの霧鳴り谷で上がった、あまりにも巨大な爆発音を耳にした。

 

 夜空が、一瞬だけ不気味なほど真っ赤に染まる。


 桂花はハッとして自分の胸を強く押さえた。

 

 何が起きたのかを、その血の繋がりが、本能が、残酷なまでに察していた。

 

 彼女の大きな瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って床へと落ちていく。


「お父様……お母様……っ」


 静まり返った部屋に、親友の悲痛な慟哭が、小さく響き渡っていた。

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