上級妃の盤上と、侍女の裏の顔
その頃、禁軍の本陣。
仮設された本陣の幕舎の中で、叡明は、冷徹な双眸で戦況地図を見つめる上級妃・雪華と対峙していた。
「申し訳ない。この大局を見れる軍師が出払っていて、私の個人的な動きに、これほどの手を貸していただき……改めてご協力に感謝する、雪華妃」
叡明が深く頭を下げると、雪華は優雅に、パサリと扇子を広げて口元を隠した。
「いいえ、お気になさらず。時間がなかったとはいえ、今回の件は後宮そのものへの脅威。これほど大規模に禁軍を合法的に動かせる機会など、そうありませんもの。楽しませていただいていますわ。……それに、お噂のあなたの女官、非常に賢いとか。私、とても興味がありますの」
「……後宮に戻ったら、必ず彼女と話す時間を作ろう」
「ええ、ぜひお願いしますわ」
「それにしても、もうかなり手を進めているな」
雪華はふふ、と妖艶に微笑むと、地図の一点を扇子で指し示した。
「そもそも私が来ている時点で『賈鴆の負けです。仕込みはすべて終わっていますわ』」
雪華が冷酷に断言する。彼女の最初の一手は、実に単純で、最も効果的なものだった。
『まずは、あの狂犬(梟仙)を放ちましょう』
その言葉通り、正面から突撃した梟仙は敵陣を文字通り蹂躙し、賈鴆の防陣網を紙切れのように引き裂いていた。
しかし、叡明は地図に記された「泰恒の屋敷」を見つめ、内心で激しい焦りを感じていた。
(ここまで来たんだ、あと少し……!何よりも凛花の安全を、最優先に確保せねば……!)
叡明がわずかに視線を揺らした一瞬、雪華はそれを見逃さず、クスリと上品に笑った。
「ふふ。あなたをそこまで焦じれさせる女官ですもの、ますます興味が湧きましたわ。……ご安心なさい、私の盤上に抜かりはありません」
雪華は冷徹に駒を動かすように言葉を続ける。
「正面の梟仙殿に目を奪われている隙に、裏道にも別部隊を向かわせました。これで賈鴆に逃げ場はありませんわ」
「流石だな、雪華妃。……私もそろそろ、その裏道から屋敷へ向かう」
「ええ、いってらっしゃいませ。あの一際大きな屋敷に、敵の別動隊が向かっているようですし、恐らくあなたの女官もそこにいるはずですわ」
その「屋敷へと続く裏道」。
避難誘導の裏で、闇に紛れて動く影があった。
お祭り衣装をド派手に着崩した姿のまま、兎のお面を被った侍女――華である。
「まったく……思ったより数が多いっすねぇ、めんどくさいなぁ」
いつもの軽い口調。
しかし、その手から放たれるのは、一切の慈悲のない一撃だった。
シュバッ、と夜気を切り裂く微かな音と共に、屋敷へ向かおうとしていた賈鴆の別動隊の手下たちが、次々と喉を撃ち抜かれて声もなく倒れていく。
「おい!なんだ!?あの女をまだ仕留められないのか!?」
「無理です!目の前にいるはずなのに、あらぬ方向から攻撃を――ぎゃああッ!?」
手下たちが大混乱に陥る。
それもそのはず、華は闇夜の中、指先に絡めた目にも留まらぬほど細い『鋼糸』を操り、投げた暗器の軌道を空中であり得ぬ軌道へと変化させて、敵の死角から正確に急所を穿っていたのだ。
「闇夜を味方に戦うあーしを、軍隊もどきの素人連中が止められるわけないじゃないっすか。これが本職なんだから」
華の声から、完全にいつもの軽薄な響きが消えていた。
底冷えのする、本物の暗殺者の声。
「……もう、お家には帰れないっすよ?」
冷たく言い放つと同時に、華の身体がブレるように消えた。
「ひっ、怯むな!攻めろ、斬り殺せ!」
残った手下たちが狂ったように刃物を振り回すが、華の衣服の裾すら掠めない。
「くそっ、当たらねえ!どこにいやがる!?」
「ふふ、残念でした。こっちっすよ♪」
手下の一人が声を聴いた瞬間、それはすでに自分の『真後ろ』からだった。
ボト、と重い音がして、手下の視界が急速に反転し、暗転していく。
気づけば、立っている手下は、恐怖でガタガタと震える男一人だけになっていた。
男は周囲を見回し、音もなく転がる数十人の仲間の死体に足をとられ、「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて尻餅をついた。
「こ、こいつ……人間か……!?」
後ずさりする手下に、華は血に濡れた暗器を弄びながら、いつもの、超明るい「笑顔」でゆっくりと近づいていく。
「あ、暖簾に腕押しってやつっすかね〜?でも大丈夫!すぐにみんなと同じところに行けるんで♪」
「わ、分かった!命だけは助けてくれ!あんたを手伝う、味方になってやるから!」
男が必死に命乞いをした、その瞬間。
華の脳裏に、さっき自分を信頼して頭を下げてくれた泰恒と菊花の姿、そして、「私の親友を守って」と自分を抱きしめてくれた桂花の泣き顔が一瞬だけ浮かんだ。
(あーしの大切な人たちを脅かすネズミは一匹残らず駆除するって、決めてるんすよ……)
お面の裏側で、凍りつくような冷たい瞳をした華は、男の命乞いを完全に無視し、一歩踏み込んだ。
ザシュッ――!!
「味方にするわけないっしょ。敵になった時点で、もう終いなんで」
鮮やかに首をはねられた男が倒れ込む。
数十人もの手下の死体を前に、華はフゥ、と小さく息を吐くと、何事もなかったかのように暗器を懐へと収めた。
「さてと。他に逃げ遅れている可愛い里の人がいないか、見回ってこようかな〜……ん?」
その時、華の鋭い聴覚が、さらに奥の裏道からの異音を捉えた。
「裏道の方が……ちょっと、思いのほか騒がしいかも?」
お面の奥の目を細め、華は再び、音もなく闇の中へと駆け出していくのだった。




