狂乱の煙と、這い寄る武神
ゴウ、と夜の山肌を駆け抜ける強い風――「山背」が、目に見えない死の薫りを孕んで賈鴆の村へと流れ込んでいた。
高台から放たれた『幻夢香』の煙は、お祭りの喧騒に紛れて確実に手下たちの肺へと侵入していく。
効果は覿面だった。
「ひっ、あ、悪魔だ!悪魔が炎の中から出てきやがった!」
「おい、何をする!俺だ、仲間だろ――ぎゃあああッ!?」
見張りの手下たちが、一人、また一人とあらぬ方向を向いて絶叫し、狂乱のままに得物を引き抜いて隣の仲間に襲い掛かる。
あるいは、糸が切れた人形のようにその場に頽れ、深い昏睡へと落ちていく。
静かだった村は、一瞬にして魑魅魍魎の蠢く地獄絵図へと変貌し、急速に混乱が伝染していった。
さらに、事態を決定づけたのは臨時の武器庫からの爆炎と怒号だった。
「おい、誰だ!誰が武器庫の中で幻夢香なんて焚きやがった!?」
「煙が凄すぎて中に入れねえ!武器が……武器が取り出せねえぞ!」
手下たちは完全に大混乱に陥っていた。
自分たちの身内の失態による不慮の事故――華の狙い通りに敵が思い込んだことで、賈鴆一味の統制は、戦う前から内側から完全に崩壊していったのである。
「ええい、何をもたついている!出来損ないの犬どもが!」
高みの見物を決め込んでいた賈鴆の屋敷の楼上から、その惨状を見下ろしていた賈鴆は、怒りのあまり手すりを叩き割らんばかりに激昂していた。
彼にとって、この香霞の里の制圧など、大いなる計画の単なる通過点、あまりにも容易い前哨戦に過ぎなかったはずなのだ。
その先にある果実こそが本命だったというのに。
「里の防衛戦力など知れている!煙を吸っていない者をかき集め、さっさと長の屋敷を制圧しろ!早くしろ!」
賈鴆が狂ったように怒声を響かせた、その時だった。
――地が、鳴った。
ゴウゴウと山を揺らす風の音を圧し潰し、バリバリと大地を爆走するような、凄まじい地響きが里の入り口へと続く一本道から近づいてくる。
「な、なんだ……!?何が来る!?」
手下の一人が振り返った瞬間、闇を切り裂いて突撃してきたのは、一頭の猛々しい白馬。
そして、その鞍に跨る、文字通り「鬼の形相」をした巨漢――武神・梟仙であった。
「我らが往く道を阻む有象無象――邪魔だああああッ!!」
凄まじい覇気。梟仙が愛槍を一振りするだけで、爆風のような衝撃波が巻き起こり、混乱していた賈鴆の手下たちは文字通りゴミのように夜空へと吹き飛ばされていく。
骨の砕ける音と悲鳴が、あちこちで同時に弾けた。
一騎当千、その言葉すら生ぬるい圧倒的な武力が村へと乱入する。
さらに、手下たちの絶望はそれだけでは終わらなかった。
梟仙の背後、山道全体を埋め尽くすように、無数の松明の炎が夜を赤く染め上げていく。
一糸乱れぬ鉄の足並み、冷徹なまでに洗練された巨大な『禁軍の陣』が、完璧な様式美をもって構えられていく。
それは、単なる地方の暴動を鎮圧する規模ではなかった。
国家の最高精鋭軍が、圧倒的な威圧感をもって村を完全に包囲していく姿そのものだった。
「賈、賈鴆様ぁーッ!里の大口の通りから、禁軍が……禁軍の大軍が攻めてきましたぁッ!」
「ば、馬鹿な……!?なぜ、なぜここに禁軍がいるのだ……!?」
報告に走ってきた手下の声に、賈鴆の顔から一気に血の気が引いた。あまりの衝撃に背筋が凍りつく。
(ま、まさか……後宮への襲撃を記した、あの密書がバレたのか……!?)
ここで初めて、賈鴆は自分が「取り返しのつかない大誤算」をやらかしたことに気づき、ガタガタと唇を震わせるのだった。
一方、その頃。
泰恒の屋敷の庭から、遠くの村で激しく燃え盛る禁軍の松明の光、そして響き渡る怒号を聞いていた凛花と桂花。
「お父様が……本当に、禁軍を率いて来てくれた……!」
凛花はぎゅっと胸元を掴み、熱くなる目頭を何度も瞬かせた。
その隣では、明霞もまた、「あの人が、本当に……」と涙ぐみながら夫の気配を感じ取っている。
しかし、安心している暇はなかった。
包囲され、追い詰められて狂乱した賈鴆の精鋭や手下の一部が、捨て身の覚悟でこの長の屋敷へ向かって全速力で進軍してくる不穏な足音が、確実に近づいていたからだ。
「ありゃー。人が軽々と宙を舞ってますよ。お見事っすねぇ」
華が両手を目の上に当てて、遠くを覗き込むような仕草をしながら、のんきに感心した声を上げる。
「あ、あの方が、凛花様のお父様……武神?」
「うん、間違いないよ。ここからでも肌がピリピリするくらいの気迫だね」
桂花の言葉に、凛花はハッと表情を引き締めた。
「……まずいわ。敵の先遣隊、想定よりも一気にこっちへ向かってきている。これじゃ、仕掛けた罠がもたないかもしれない」
防衛の薄さを突かれる、そう凛花が緊迫した声を上げた瞬間、屋敷の奥からドタドタと足音が響き、泰恒、そしてその傍らに立つ一人の女性が姿を現した。
「お、お母様……!?」
桂花が驚愕の声を上げる。
そこにいたのは、長年眠り続けていたはずの彼女の母、菊花だった。




