各々の覚悟と、紅葉の雫
星霞祭の最終日の朝は、静謐な祈りのような光から始まった。
薄暗い寝室の片隅で、里の長・泰恒は、永い眠りについている妻・菊花の枕元に腰を下ろしていた。
微かに聞こえる寝息に耳を澄ませながら、彼はこれまでの数日間に起きたこと、そして凛花や娘の桂花たちが里を守るためにどれほど奔走してくれたかを、一言一言、静かに語りかけた。
「賈鴆たちの企みはすべて分かった。……今日、我々も命を懸けてこの里を守る。だからお前も、どうか……」
泰恒が菊花の細く冷たい手を両手で握りしめ、胸の内で重い覚悟を決めた、まさにその時だった。
握り合っていた彼女の指先が、かすかに、しかし確かにぴくりと動いた。
「……っ、菊花?」
驚きに目を見開く泰恒の視線の先で、菊花の長い睫毛が震え、ゆっくりと、光を湛えた瞳がその瞼を持ち上げた。
彼女は愛する夫の焦燥に満ちた顔を見つめると、弱々しくも、どこか凛とした笑みを唇に浮かべた。
「ふふ……起きて、私も一緒に戦わなきゃね、あなた……」
「菊花……!ああ、無理はするな。だが、よく戻ってきてくれた……!」
絶望の縁から最愛の妻が帰還したその奇跡は、泰恒の胸にこれ以上ない強固な炎を灯した。
屋敷の外からは、星霞祭の最終日の幕引きへと向かう、里人たちの独特の高揚感が混じったざわめきが聞こえてくる。
しかし、泰恒の屋敷の中は、一歩足を踏み入れれば肌が痛いほどの張り詰めた空気に満ちていた。
私は、お母様の部屋の扉を静かに叩いた。
中に入ると、お母様は私が施した屋敷の周囲の罠の布陣図や、迎撃用に準備した薬の包みを一つずつ丁寧に確認していた。
私の気配に気づくと、お母様は振り返り、心底愛おしそうに優しく微笑んだ。
「本当に、たくましくなったわね、凛花。あなたの作ったお薬と仕掛けは、きっとこの里の皆を、そして私たちを守ってくれるわ」
そう言って、お母様は私の両手をそっと包み込むように握りしめた。
温かく、少し頼りないその手のひらの感触に、私は胸を張って答える。
「ええ。絶対に、お母様を連れて後宮へ帰るわ。お父様も、きっとすぐそこまで来ているもの」
「ええ、信じているわ。私たちの可愛い武神様をね」
お母様と視線を交わし、私たちは深く頷き合った。
昼下がり、外の太鼓の音が一段と激しさを増す中、華は自室で静かに牙を研いでいた。
さっきまでのド派手なお祭り衣装ではなく、黒を基調とした、極限まで無駄を削ぎ落とした動きやすい暗殺衣に着替えていく。
衣服のあちこちの隙間に、手際よく鋭利な暗器を仕込んでいくその手つきは、どこからどう見ても熟練の『それ』だった。
「これでいいっかなー。ふふ、なんだか懐かしい格好」
いつもなら「〜っす!」と弾ける彼女の口調から、一切の軽薄さが消え失せていた。
鏡に映る自分の顔を見つめ、前髪を払う。
「裏に黒蓮が関わってなければ、賈鴆をもっと早く始末してたのにな。でも、あいつにもう時間は与えない」
「……あたしの大切なものを守るためなら、立ちふさがる者は、本来のやり方で始末するまで」
氷のように冷たく呟いた彼女は、鋭い獣のような目を隠すように、白と赤の兎のお面を顔に深く被った。
泰恒様が事前に仕込んだ武器庫の「幻夢香」の効果を確実に、そして最悪の形で引き出すため、華は単身、賈鴆の古い調薬場への潜入を開始した。
同じ頃、桂花は自室の文机の前で、亡き幼馴染・白英が遺した小さな形見の守り袋を、両手でそっと握りしめていた。
「白英、どうか力を貸してね。今度は私が……凛花と、この里の皆を守る番だから」
こぼれ落ちそうになる涙を、着物の袖で乱暴に拭い去り、彼女は真っ直ぐに前を向いた。
そして、部屋の前に気配を感じ、扉を開ける。
「華ちゃん、ちょっといい?」
呼び止められた華は桂花の部屋に入り、お面を頭の横にずらし、いつもの調子を装って首を傾げた。
「おや、桂花様。どうしましたー?」
「華ちゃん。もう戦いが始まったら、ゆっくりお話しできないかもしれないから、先に言っておくね」
「あー……確かに。分かりました、黙って聞きますね」
華は真剣な表情になり、桂花の言葉を待った。
桂花は自身の髪に揺れる、私が贈った紅葉の簪にそっと触れながら告げる。
「この戦い、どうなるか分からない。……でもね、もし私に何かあったら、その時は凛花について行ってほしいの」
「……っ」
「私はもう、覚悟ができてるの。里のために戦うって」
華は息を呑み、桂花の瞳をじっと見つめた。
そこには、かつての弱虫だった少女の面影はなく、一国の主にも劣らない強固な光が宿っていた。
「……凛花様に、ですね」
華は視線を落とし、それから、ふっといつもの軽薄な仮面を完全に脱ぎ捨てた。
「でも、桂花様。里のためを思うなら一つ、あーしから……いいえ、あたしから一つ言わせてください。里の人のためにも、どうか生きることを諦めないでください。この里には、あなた達が必要なんです。……あなたが大好きで、将来一緒になるはずだった白英様も、きっとそう思っていますよ」
「……私も、一緒になりたかったよ」
抑えていた感情が、桂花の声を震わせる。
「ずっと、ずっと一緒にいられるって思ってた。でも、白英は命を懸けて、今の私たちを、この状況を繋いでくれたの。だから、今度は私が命を懸ける時だと思ってる」
「……本当に、覚悟決めたんですね。そんな目するの初めて見ましたもん」
華は微かに微笑み、胸の奥底から絞り出すように呟いた。
「あたしはね、桂花様と白英様が、仲睦まじくこの里を一緒に治めてくれていたら、それだけで十分に幸せだったんです。ただそれだけ。……あの日、あなたに救われてから、あたしはずっと、あなた達のために尽くしてきましたから。あたし桂花様のこと大好きです」
「うん、ありがとう……!」
桂花はこらえきれず、華の細い身体を強く抱きしめた。
華もまた、その背中にそっと手を回す。
「だからこそ……何かあった時は凛花についていって、彼女を守ってほしいの。きっとこの先、あなたのその力が、彼女の助けに必要になる。……私の、一番の親友をお願いね」
「……桂花様。分かりました。この命に代えても」
お互いに強く抱き合っていたため、お互いの顔を見ることはできなかった。
だが、二人の手元に、ポツリ、ポツリと、相手を心から思いやる温かい雫が零れ落ち、着物の生地を濃く染めていった。
ついに夕闇が完全に里を包み込み、星霞祭の最終日の幕引きを告げる地鳴りのような太鼓の音が、里中にドンドコと響き渡った。
その瞬間、泰恒様の読み通り、周囲の深い山々から里へ、そしてその風下にある賈鴆の村へと吹き抜ける、冷たく強い「山背」が吹き始めた。
里の遥か高台――仕掛けられた幻夢香の導火線に、じわじわと赤細い火が近づいていき、ついにパチパチと音を立てて点火する。
ゴオゥ、と風が唸る。目に見えない、しかし確実に脳を狂わせる幻惑の煙が、怒濤の風に乗って賈鴆の村へと容赦なく流れ込んでいった。
それと同時に、賈鴆の地下武器庫。
静まり返った石造りの空間で、華は背後から近寄ってきた見張りの手下一人の首筋へ、音もなく暗器を突き立てた。
手下は声も上げられずに崩れ落ちる。
華はお面の下で冷酷に口角を上げると、泰恒様が事前に運び込ませていた幻夢香の包みを開き、火をつけ焚きはじめ、その死体の手元へと転がした。
「よし。こいつが幻夢香を興味本位で間違えて使っちゃって、自滅したように見せかけておけばいいか」
完璧な工作を終えると、彼女は屋敷の窓から外へ向けて、指笛で鳥の鳴き声を模した作戦完了の合図を送る。
「よっしゃ!あーしの裏仕事は、ここまでっす!」
泰恒様の屋敷の庭。
私と桂花は、風下で不気味に静まり返り始めた賈鴆の村をじっと見つめていた。
「……始まったね、凛花」
「うん。これで敵が混乱して、動きが鈍ってくれればいいんだけど……」
緊迫した面持ちで語りかける私を見て、桂花がふと「あれ?」と声を上げ、私の顔を覗き込んできた。
「凛花、どうしたの、それ」
「え? 何が……あ」
触れた指先に、ぬるりとした赤い液体がつく。
「う、嘘……鼻血だわ」
「あはは!ちょっと大丈夫!?ほらほら、お姉ちゃんのこの布に、ちーんして!」
「ちょっと!やめてよ桂花!私、小さい子供じゃないんだから!」
差し出された布を慌てて奪い取り、鼻を押さえる私を見て、桂花は楽しそうにくすくすと肩を揺らした。
「ふふ、珍しく緊張してる?でも、私は凛花が隣にいてくれるから、不思議とすっごく落ち着いてるよ」
「……私も、同じよ。ただ、ちょっと気持ちが高ぶっちゃったみたいね」
二人でそんな情けないやり取りをしていると、背後から「おやおや〜?」と、いつものお調子者の声が近づいてきた。
いつもの格好をして兎のお面を頭に乗せた華が、ひらひらと手を振っている。
「二人とも、緊迫した空気のわりには随分と和気あいあいっすね!そろそろ、ある意味『第二のお祭り』が始まる感じっすか?あーしはこれから、里の戦況を見ながらあちこち動き回るんで!」
「華、本当に大丈夫なの?無理だけはしないでね」
私が心配そうに言うと、桂花が私の隣でポンと胸を叩いた。
「大丈夫だよ、凛花。華ちゃんだもん!」
「そうそう!言ったじゃないすか、あーしは逃げ足の速さだけは神がかってますから!」
華のいつもの軽快な言葉に、私たちは顔を見合わせ、嵐の前の一瞬の静けさを慈しむように、くすくすと笑い合った。
――その頃。
香霞の里へと続く、一本の険しく切り立った山道を、凄まじい地響きと火花を散らして爆走する巨大な一団があった。
夜霧を裂いて先頭を駆ける、純白の戦馬。その鞍に跨っているのは、文字通り『鬼』の形相をした梟仙であった。
髪を振り乱し、その圧倒的な覇気だけで周囲の野生動物を気絶させるほどの殺気を放っている。
その後ろには、赤々と燃え盛る松明を掲げた、一糸乱れぬ動きを誇る圧倒的規模の「禁軍」の精鋭たちが、大地を揺るがしながら付き従っていた。
山を抜け、遥か前方に香霞の里の灯りが見えてくると、梟仙はその恐ろしい眼光をさらに凶悪に輝かせ、咆哮を上げるかのように心の中で強く吠えた。
(待っていろ、凛花!明霞……!!今すぐ、パパが助けに行ってやるからなァァ!!!)
大地を穿つ軍靴の音が、いよいよ里の夜明けを告げる地鳴りとなって響き渡ろうとしていた。




