不速之客(ふそくのきゃく)と、紅葉のお守り
翌朝、朝露がまだ草木を濡らす頃、私は朝一で玄庵さんを泰恒様の屋敷へと連れてきた。
大部屋にはすでにお母様(明霞)と桂花が待っており、私たちはすぐに里の古びた羊皮紙の地図を広げた。
「敵が攻め込んできた際、正面からぶつかっては勝ち目がありません。この入り組んだ地形を利用して、進路をいくつかに絞り込む必要があります」
私の言葉に、玄庵さんが深く頷き、皺の刻まれた指で地図の一点を指し示した。
「それならば、里の北側にある『霧鳴り谷』の細道と、南の『落差の崩れ橋』へ誘導するのが上策でしょうな。そこならば、大軍であっても一列にならざるを得ん」
「ありがとうございます、玄庵さん。……お母様、絞り込んだ進路に仕掛ける薬の調合ですが、後宮で私が作った『痺れ毒』の処方を応用しようと思います」
「ええ、それがいいわ、凛花。私が持っている薬草の知識も合わせれば、より即効性の高いものが作れるはずよ」
こうして私たちは、玄庵さんの土地の知識とお母様の知恵を借りながら、迎撃のための罠の配置を着々と決めていった。
一方その頃、里の長である泰恒様は、普段と変わらぬ調薬師としての顔を貼り付け、賈鴆の手下たちがたむろする区画へと赴いていた。
背負った籠には昨日、華と話し合った通り、それとなく仕込まれた「幻夢香」が入っている。
「おい、泰恒。今日の分の香の納品はまだか?」
横柄な態度で近づいてきた手下に対し、泰恒様はわざと困ったような顔をして、懐から小さな包みを取り出した。
「ああ、それなのだが……実は昨日、古い調薬場から珍しい配合の幻夢香が見つかってね。少量だが非常に質が良い。ただ、これは扱いが難しく、下手に刺激すると一瞬で部屋中に香りが充満してしまう。ひとまず安全な地下の武器庫……いや、あそこの古い調薬場の片隅にでも保管しておいてはくれないか?」
「ほう、珍しい幻夢香だと? どれ、俺たちが預かっておいてやる。賈鴆様へのいい手土産になるかもしれんからな」
欲深い手下は、泰恒様の言葉にまんまと乗せられ、警戒することなく幻夢香の包みをひったくるようにして地下へ運んでいった。
その背中を見送りながら、泰恒様は誰も見ていない物陰で、小さく快哉を叫ぶように拳を握りしめた。
「……よし、うまくいったぞ。あとは華、お前に託す」
午後になり、里は星霞祭の最終日の前日ということもあって、賑わいは再び最高潮を迎えていた。
外からは楽しげな太鼓の音や笑い声が響いてくる。
しかし、そんなお祭りのドタバタに紛れて、泰恒様の屋敷の周りをうろつく、明らかに不審な男たちの影があった。
武器の搬入を終えた賈鴆の手下数名。彼らは明後日の制圧作戦の前段階として、里の最重要拠点である「長の屋敷」の内部構造や、防衛戦力がどれほどあるかを探るため、侵入を試みていたのだ。
「――静かに。奥に誰かいるぞ」
屋敷の奥で罠の最終準備を進めていた私とお母様、そして桂花は、廊下から近づいてくる、忍び足の不穏な足音に気がついた。
(しまっていったわ……!偵察!?今ここで私たちが見つかったら、これまでの作戦がすべて水の泡になる……!)
お面を被る時間すらない。私たちが息を呑み、絶体絶命のピンチに身を硬くした、まさにその時だった。
「おーーーう、お兄さんたちぃぃ!ウェーーーイ!!」
度外れた陽気さと共に、廊下の向こうから突如として現れたのは、お祭り衣装をこれでもかってくらいド派手に着崩し、両手に巨大な酒瓶を持った華だった。
その後ろには、すでに真っ赤な顔をして出来上がっている里の若い衆が大勢引き連れられている。
華は唖然とする手下たちを見つけるや否や、一瞬の隙も与えずに突撃した。
「あれー!?何してんすか何してんすかー!こんな屋敷の薄暗いところでシケた顔してないで、あーしたちと一緒にガッツリ飲まないと人生損損!ほら、祝い酒っすよ!」
「お、おい!離れろ、俺たちは今――」
「いーからいーから!男なら黙って一気飲みっす!さあみんな、このお兄さんたちも宴会に強制連行っすよーー!」
「おおーーー!!」
華の人心を翻弄する圧倒的な勢いと、常軌を逸した強引さに圧倒され、手下たちは完全にペースを乱された。
探りを入れるどころではなくなり、若い衆に揉みくちゃにされながら、そのままズルズルと屋敷の外へと引きずり出されていく。
連れて行かれる間際、華は一瞬だけ、部屋の陰に隠れていた私と目を合わせた。
そして、いつものお調子者の顔のまま、にやりと不敵に笑って親指をグッと立ててみせた。
「……はぁ。助かった、けど……」
手下たちが去り、静まり返った部屋で、私は冷や汗を拭いながら呆然と呟いた。
(華……あなた、本当にただの里の娘なの……?あの間合いの詰め方、相手の意識の逸らし方……普通の人間ができる技じゃないわよ……)
彼女への謎は深まるばかりだったが、今は一刻の猶予もない。
私たちはすぐに正気を取り戻し、私と桂花、お母様と玄庵さんの二手に分かれて、決めた場所へと罠の設置に向かった。
私と桂花は、先ほど絞り込んだ『霧鳴り谷』の細道へと来ていた。
人目を盗みながら、私たちは協力して様々な罠を仕掛けていく。
足を乗せれば一瞬で崩落して谷底へ落とす橋の仕掛け、巧妙に偽装された落とし穴、浴びれば数時間は身動きが取れなくなるお母様特製の痺れ毒、そして、黒蓮の技術を応用した小規模な爆発仕掛け――。
「ふぅ……凛花、これで仕掛けは全部終わったかな?」
額の汗を拭いながら桂花が尋ねてくる。
私は仕掛けた導線が自然に隠れているかを確認し、力強く頷いた。
「うん、大丈夫。完璧よ。これだけの罠があれば、どれだけ大軍で押し寄せてきても、先頭集団は確実に大混乱に陥るはずよ」
「そっか……よかった……」
桂花はホッとしたように胸を撫でおろしたが、その表情はどこか晴れない。
彼女は谷の向こうを見つめながら、ぽつりと寂しげに呟いた。
「でもね……罠で足止めできても、もし敵がそれを乗り越えて入り込んできたら……やっぱり、里の人の誰かが、武器を持って戦わなきゃいけなくなるんだよね……?」
「……そうね。血を流さずにすべてを終わらせるのは、難しいかもしれない。だけど……」
私は桂花の肩をそっと抱き寄せた。
「だからこそ、私のお父様たちが来てくれるのを信じて、祈るしかないわ。それまでに、私たちができる限りの盾になるのよ」
「うん……分かってる。分かっているんだけどね」
帰り道、私たちは再び星霞祭の賑わいの中を、目立たないように歩いて屋敷へと戻っていった。
行き交う里の人々は、みんな笑顔だった。
何も知らずに、明後日に迫る絶望のことも知らずに、ただ純粋にお祭りを楽しんで笑っている。
道中、桂花はその笑顔をじっと見つめていた。
ふと見ると、彼女の小さな拳がぎゅっと握りしめられていた。
その拳は、怖れからなのか、それとも別の感情からなのか、わずかに、しかし確実に震えている。
「私が……」
桂花は、お祭りの喧騒にかき消されそうなほどの小さな声で、しかし鉄のような固い決意を込めて呟いた。
「私が……絶対に、みんなを守らなきゃ……」
その横顔に揺れる紅葉の簪が、夕暮れの光を浴びて、まるで燃えるような赤色に輝いていた。




