潜む牙と、華の微笑み
静まり返った夜道を影のように駆け抜け、私たちは息を切らしながら泰恒様の屋敷へと滑り込んだ。
裏口の重い木扉を閉め、ようやく深く息を吐き出す。
暗い廊下の奥から、かすかな明かりを携えて現れたのは、お母様だった。
その表情には、娘たちの身を案じる深い慈愛と、一抹の緊張が滲んでいる。
「おかえりなさい、二人とも。無事でよかったわ」
「ただいま、お母様……」
お母様の姿にホッとしたのも束の間、奥の部屋からひょっこりと顔を出した華が、私たちの後ろに立つ人物を見て目を丸くした。
「あれーっ!?泰恒様も一緒だったんすね!……って、なんか三人とも、お通夜みたいに表情が超暗い感じ? 高台でなんかあったんすか?」
「うん……ちょっとね。華ちゃん、実は大変なものを見ちゃったの」
桂花が羽織を脱ぎながら、声を潜めて深刻な声音で語り出す。
「私たちが幻夢香の仕掛けを終えたあと、高台のすぐ下をね……賈鴆の手下たちが、大量の武器を荷台に積んで、夜闇に紛れて大急ぎで運んでいたのよ」
「ええっ!?ちょ、マジっすかそれ!?」
華が声を裏返らせて驚く。私はその言葉を引き継ぐようにして、一同を見回した。
「ええ、本当よ。あっちも星霞祭の陰で、着々と牙を研いで動いていたみたい。華が盛り上げてくれたお祭り騒ぎの裏で、奴らは戦力の配置を完全に終わらせる気だわ。星霞祭が終わったまさにその瞬間、一気にこの里を武力で攻め落としてくるかもしれない」
私の言葉に、お母様が美しい眉をひそめ、ふっと息を漏らした。
「そうなると……明後日の夜明けには動き出すということね。私たちが考えていたよりも、遥かに時間がないわ」
「ああ、私も今日、奴らの作業場近くで手下どもが不穏な話を企んでいるのをこの耳で聞いた」
泰恒様が腕を組み、苦渋を滲ませた声で続ける。
「武器を急いで準備しているのは確実だ。ほぼ間違いなく、星霞祭の終了と同時に我が物顔で攻め入る準備を整えているだろう」
「うう、かなりまずい状況だよね……。でも、攻められた時の防衛の準備なんて、私たちはこれからだよね?どうすればいいの、凛花?」
桂花が不安を押し殺すようにして私を見つめる。
私は地図がある大部屋へと視線を向けながら、落ち着いて答えた。
「大丈夫よ、桂花。攻め込んでくることが分かっているなら、相手の通り道を一箇所に絞り込んで、そこに迎撃のための罠を仕掛ければいいわ。地形を利用すれば、少数の戦力でも足止めは可能よ」
すると、それまで顎に手を当てて考え込んでいた華が、ゆっくりと顔を上げた。
「……それなら、あーしがなんとかしますよ」
その瞬間だった。
私の背筋に、ゾクリとした鋭い寒気が走った。
いつもなら「〜っす!」と声を弾ませる華の口調から、ほんの一瞬だけ、その軽薄な響きが完全に消えていた。
そして、前髪の隙間からのぞく彼女の瞳が、一切の光を反射しない、底の割れた深淵のように据わっていたのを、私の目は見逃さなかった。
黒蓮の屋敷で嫌というほど見てきた、命を奪う側の「目の据わり方」だ。
「奴らが地下の古い調薬場を武器庫にしてそこに運んでるってんなら、そこに幻夢香を少し仕込んでおいて、一網打尽にできると思いますんで」
「えっ!?でも華ちゃん、それってすごく危険だよ!?もし華ちゃんまでその煙を吸っちゃったら……」
桂花が心配そうに華の顔を覗き込む。
すると華は、何事もなかったかのように、いつもの超ド派手で明るい満面の笑みに戻って、自分の胸をドンと叩いた。
「なに言ってるんすか、桂花様!あーしなら全然大丈夫っすよ!なんたって、逃げ足の速さだけはいっちょ前なんすから!とにかく、この件はあーしに丸ごと任せてください!」
(……いつも通りの華、よね?でも、さっきのあの凍りつくような気配は……私の気のせい?それとも……)
後宮の暗部で本物の暗殺者や武官の殺気を見てきた私の勘が、華という少女の底知れなさに向かって、静かに警鐘を鳴らし続けていた。
しかし、今の彼女が里のために命を懸けようとしていることだけは間違いなかった。
泰恒様はしばらく華を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……なら、華よ。お前にその役目を頼みたい。武器庫の近くに幻夢香を少し置いておくように、明日、私が作業の過程で手下どもにそれとなく仕向けておこう」
「こちらが意図して仕掛けたというよりは、手下どもが興味本位で調薬場から幻夢香を持ち出して、間違えて使ってしまったようにしておけば、賈鴆たちにも怪しまれまい」
「あざっす、助かります!お願いします!」
華は嬉しそうに頭を下げた。その姿は、どこからどう見てもいつもの元気な里の娘そのものだった。
お母様が私たちの顔を見つめ、静かに拍手を一つ打った。
「役割は決まったわね。それなら凛花、桂花。明日の朝一に玄庵さんをここに呼んで、里の地図を広げて確認しながら、罠を仕掛ける場所の準備を具体的に進めていきましょう」
「「うん!」」
私と桂花は力強く頷起合う。泰恒様もまた、覚悟を決めたように腰の小刀に触れた。
「よし、各自頼んだぞ。私も明日の仕込みと奴らへの誘導をしくじらないよう、慎重にやるさ。それと、今から夜通しで里の守衛や信頼できる若い衆の家を回り、戦いが近いことを内密に話して回ろう。防衛の布陣を敷く。では、私は先に失礼するよ」
泰恒様は静かに部屋を出て、夜の闇へと消えていった。
華もまた、伸びをしながらあくび混じりに笑う。
「じゃあ、あーしも明日の大仕事に向けて色々と準備があるんで、自分の部屋に戻んでー。みんなも夜更かしは美容の敵っすよ!」
そう言って、足早に廊下の奥へと去っていく華の後ろ姿を、私はしばらく見つめていた。
桂花が私の肩を優しく叩く。
「凛花、とりあえず今日やれることはやったし、明日に備えて私たちも少しでも休もっか」
「……そうね。明日からが、本当の正念場だもの」
お母様に見守られながら、私たちはそれぞれの部屋へと戻った。
明日になれば、再び星霞祭の喧騒が始まる。
だがその裏で、里の命運を懸けた、目に見えない死闘への準備が始まろうとしていた。




